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当たり前の世界が歪む瞬間に興味がある──「作家と90分」柴崎友香(後篇)

話題の作家に瀧井朝世さんがみっちりインタビュー

2017/11/11

genre : エンタメ, 読書

note

SNSに何か書くときに「こういう人間に思われたい」って考えたり、自分を外から見る視点から逃れられない

――視点を替えることで、観察する側が、観察される側であったりする、ということが浮かび上がりますよね。

柴崎 そうですよね。だから、自分が素で振る舞っている視点だけではないんですよね。SNSに何か書く時に、「こういう人間に思われたい」とか考えるし、バラエティー番組的な考え方で、クラスの中でも「キャラがかぶる」って考えたり(笑)。素の自分以外に、常にどう見られるか、自分を外から見てる視点から逃れられないというか。

――ほんとSNSのおかげで全人類が自意識過剰になっている気がしますよね(笑)。

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柴崎 本当に(笑)。それとどう折り合いをつけるかも含めて、多視点に興味がある、というところはありますね。

小説自体が見えるものと見えないものの間にあるのかな

――また、柴崎さんは「見える/見えない」と同時にその場所に「いる/いない」も描きますよね。『わたしがいなかった街で』や、「ハルツームにわたしはいない」(『週末カミング』12年刊所収/のち角川文庫)という短篇も書かれていますし。

週末カミング

柴崎 友香(著)

角川書店(角川グループパブリッシング)
2012年11月28日 発売

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柴崎 見えるものと見えないものって表裏一体で、その境目みたいなところに心惹かれるところがあります。あちら側からは「見える」けどこちら側からは「見えない」とか。「見えない」でいうと時間は目に見えないものの筆頭に挙がりますよね。でもたとえば古い建物を見た時に、ある程度時間は見えると思うんです。新しい建物の真横にすごく古い建物があったら、時間の差は一目瞭然だし。見えないから想像することもあるし。

 小説自体も文字で書いてあって、文字は見えるけれどそこで書かれている風景は想像して、頭の中だけにある風景ができるわけで。小説自体が見えるものと見えないものの間にあるのかなという感じがしています。

 自分は1か所にしかいられない、同時に2か所にいることができないけれど、でも離れた場所を想像することはできる。インターネットが発達して、自分が行けない場所のこともすごくよく知ることができるからこそ、実際には行けないことがかえってくっきりする。昔だったらそこがぼやーっとしていて、ただよく分からないだけだったのに、今は情報があるからこそ、「自分はここにいる(そこにいない)」ということが一層はっきりしてしまうところがあって。だからこそ知りたいと思ったり、想像したりするという。

瀧井朝世さん ©平松市聖/文藝春秋

――日常的な光景から想像を膨らませていくわけですよね。そういえば昔、「なんでもない日常から面白いものを見つけられますよね」と言われると「日常から面白いもの、ではなくて、日常そのものが全部面白い」というようなことをよくおっしゃっていましたよね。

柴崎 それは全然変わってないですね。私は何を見ても面白く思えるので。「なんでもないもの」と言われると「なんでもないものってなんだろう」と思う。考えだしたら全部変だし、考えられることはいくらでもあるので、本当に飽きないですね。