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「バラバラのご遺体も必ず人間の形に…」“納棺師&芸人”二足のわらじを履く青木さん(35)がとてもネタにできない「知られざるおくりびとの日常」

お笑い芸人”兼“納棺師” おくりびと青木インタビュー#1

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「笑われる喜び」を知った小学生の頃

――お笑い芸人になりたいと思ったきっかけはなんでしょうか。

おくりびと青木 もともと子供の頃から芸能界にすごく憧れていて「目立ちたい」、「人前に出たい」、「有名になりたい」という気持ちがあったんです。小学生の時に演劇を見せる機会があったのですが、そこで棒読みだったり、あまりにも下手すぎる演技をしてしまったんですよ。そしたらそれを見たお客さんが笑って下さったんですよね。笑ってくれたことに対して、“笑われた”という恥ずかしさよりも“笑ってくれた”という喜びを感じてしまったんです。「笑ってくれるってすごい気持ちいいな」って。さらにバラエティー番組でお笑い芸人さんが体を張って芸をしたり、リアクションを取っている姿を見て、かっこいいなと。そこからお笑い芸人になりたいという気持ちが徐々に生まれ始めました。

――お葬式の専門学校に通っている時も優先順位としてはお笑いが一番でしたか。

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おくりびと青木 もちろんです! ほとんどお笑い芸人になることしか考えてなかったですね(笑)

実家の葬儀会社に勤務するおくりびと青木 ©文藝春秋(撮影・宮崎慎之輔)

2足のわらじで、東京と福島を行ったり来たりする生活

――ご両親は息子がお笑い芸人になると知って、反対はされなかったのですか?

おくりびと青木 芸人云々よりも「せっかく就職してお葬式の勉強したんだから、脱線をせずにストレートにうちに帰ってきてくれば一番いいんじゃないの」という話はされましたね。ただ、芸人の活動をする代わりに時間があれば会社の手伝いをするという条件を出されて、今も芸人活動を続けています。今でもしょっちゅう親に「今すぐ東京のアパートを追い払ってうちに帰って来なさい」って言われてますね(笑)。

――お笑い芸人として活動を始めた頃は、納棺師の仕事を辞めようとは思わなかったのでしょうか。

おくりびと青木 やっぱりそれだけでは食べていけないんですよね。普通のバイトをやることも考えましたけど、せっかく納棺師という手に職を持っているんだったら、実家の仕事を手伝いながらお笑い芸人を続けた方が親も喜びますし、一番いいのかなと。それから東京と福島を行ったり来たりする生活が始まりました。

コンビ時代のおくりびと青木(提供:松竹芸能)

――もともとピン芸人として活動されていたのでしょうか。

おくりびと青木 もともとコンビを組んでいたのですが、よくある話で徐々にコンビ間で意見の食い違いができはじめちゃって。あとは何より私がお葬式の仕事も並行してやっていたので、急に仕事が入ったりしてコンビでの打ち合わせやライブの予定が立てづらくなってしまったんです。結局、コンビは解散してしまって、5年くらい前からピン芸人として活動するようになりました。ただ、副業芸人というよりは正直、仕事の割合としてはお笑いが1、お葬式は9なので、ほぼほぼお葬式の専門業者みたいな感じですね。

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