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 しかし80年代に入るころには状況が一変する。バブル経済が始まったのだ。当時、フランチャイズ店である「スエヒロ」は、不動産業を兼業しているところも多かった。立ち食いそば事業で稼げる利益はたかがしれているからだ。そこで“本業”に集中するために店の運営権を本部に戻すといった現象が増えていった。つまり「そばのスエヒロ」のフランチャイズビジネスがうまくいかなくなってきたということである。

六文そば人形町店(2021年11月撮影)
六文そば金杉橋店(2019年8月撮影)

 さらにバブルとともに大手チェーンが立ち食いそば事業に本格参入。先述の「名代富士そば」「小諸そば」だけでなく「ゆで太郎」「そば処かめや」なども登場している。当時は「天亀そば」などの勢力も力をつけていた。

1980年代に全体としてのビジネスは解散

 80年代になると、「六文そば」「スエヒロ」の運営会社である「株式会社そばのスエヒロ」としての立ち食いそば事業は終了。直営店である「六文そば」は、各店の店長が束ねることができる範囲で、事業を分割することになった。

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「六文そば中延店」の鈴木店主が、多くの店舗を引き継いだ。「日暮里1・2・3号店」「人形町店」は、また別の店主が運営している。かつては日本橋高島屋の裏や築地にも「六文そば」は営業していたが、そのほとんどがバブル崩壊時に閉店した。

再開発前の「六文そば日暮里3号店」(閉店)、駄菓子横丁の入口付近(2003年撮影)
六文そば中延店(2021年11月撮影)
日暮里1号店(2021年11月撮影)
日暮里2号店(2021年11月撮影)

 それ以降、ゆるやかにそれぞれの店舗が存続し、全盛期には25店舗はあったそうだ。高齢化や立ち退きなどにより閉店する店が増え、現在6店舗が「六文そば」として営業している。

六文そばの戦士たちに敬意を

「株式会社そばのスエヒロ」を立ち上げた福田氏は会社を離脱した後、浜松町で「福寿」(2007~2012年)を営業し、「六文そば」で培った味の技を復活させた。私がお話をうかがった故・鈴木店主は「六文そば」グループを立て直し、「須田町店」や「中延店」などを粛々と経営した。

 湯気の向こうに日本一の立ち食いそば屋になることを夢見て集まった「六文そば」の戦士たちは、うまい立ち食いそばを作り、激動の時代を駆け抜けていった。彼らには心から敬意を表したいと思う。

「六文そば」というビジネスモデルは、今の時代にはそぐわないかもしれない。しかし、今でも店に行けば、若いオフィスワーカーが常連になっている。また、幸い何人かのご子息が後継者として店を切り盛りされている。後継者の方は、どうか「六文そば」の味を末永く残して行ってもらいたいと願う次第である。

写真/坂崎 仁紀