――その言われ方はとてももどかしかったです。権力ではなく、面白いからあそこの席に座ってるのにと。
上沼 権力なんてないです。吉本でも松竹(芸能)でもないし、ひとりでやってるわけですから。ずっとひとり。まあ、でも主人がいましたんでね。いつでもやめれるわって気持ちがあったかもしれない。
ただタレントのことだけを考えると、虚しいですね。ローカルはしんどい。東京にたまに行くと「ほんまにおったわ、パンダは」みたいな感じなんですよね。珍獣か私は!
――「上沼恵美子は実在した」(笑)。
上沼 そうなんです。それはやっぱり露出がなかったからですね。NHKの『バラエティー生活笑百科』を観ているのは、ご高齢の方が多いわけで。
――私も『バラエティー生活笑百科』で上沼さんを知った一人です。上沼さんのご主人は、いつも上沼さんに「えみちゃん、君は本当にきれいだ」って言ってると思っていました(笑)。
上沼 そんなんノイローゼになりますよ(笑)。もちろん作家さんがいたんですが、ほらを吹くようになったのは私なんです。初期の頃は全然面白くなかったので。それで、もう変えたれと思って、全部変えて、自分で台本作った。それで「大阪城が実家なんですよ」というのから始まったんです。
それがバカウケしたので、「あんな風にちょっとほらを吹くキャラを作っていただけませんか」って作家の先生にお願いしたんですね。あれも30年近くやらせていただきましたが、ちょうどもう吹くほらがなくなってやめました。
千里・万里時代、活躍はすぐにできた
――少し遡って、海原千里・万里時代のお話をお伺いします。上沼さんは高校生の時から漫才をやられていましたよね。
上沼 はい。3時間目まで学校行って。4時間目からもう早退で、あの汚い楽屋に入って。吉本でも松竹でもない、梅田の小さいストリップ劇場を改装した寄席小屋。
――そこに制服姿の高校生が入っていく……違和感ありますね。
上沼 そうですよ。化け物屋敷みたいでしたもん、あの楽屋は。そんなところに制服着た、溌剌とした若いのがね……。漫才好きでもないのに。今は「M-1」とかあるから、芸人はかっこいいと思われますが、当時は芸人なんてとんでもないって時代だったんですよ。人に笑われる。言うたら、蔑まれるような世界でした。
うちは父親が中田ダイマル・ラケットいう人たちの大ファンでしてね。涙流しながら淡路島のテレビで笑ってました。日曜日は大阪に私も連れて行かれて、寄席に行って、帰りにフグ食べて帰って来る。それが彼の生きがいだったんです。
ーー英才教育をされていたんですね。
上沼 そう。娘がちょっと喋れるわ、歌も歌えるわというので、『素人名人会』っていうのに無理矢理出されて。そこからうら若き乙女が、人に蔑まれる笑われる世界に……。もうむちゃくちゃな父親でしたね、今思えば。
ただ、活躍はすぐにできました。NHKからレギュラーが決まりまして。『土曜ひる席』という、『生活笑百科』と同じ枠です。そこからレギュラーで、海原千里・万里時代というんですか、姉と漫才やってた時代はレギュラー13本やってましたね。