「私の出発を確認し、出発してすぐに持ち去っているわけですから、私から見える範囲にいた人が犯人なのでしょう。気づいたときに引き返したとしても、20分はかかるわけですから、“ときすでに遅し〞だったと思います。ザックの中にしまわれてしまえばわかりませんし、わかったとしても私のものだと証明することもできませんしね」
被害総額はざっと十数万円
盗まれたテントは、「ニーモ」というアメリカのブランドの、日本特有の高温多湿な気候に対応するようにつくられたモデルで、備品とセットで6万円以上で購入したものだった。そのほか、シュラフ、エアーマット、ジェットボイル(ガスストーブ)、ランタン、テーブル、チェアー、Tシャツなど、幕営地に置いていたすべてのものがなくなっていた。テントとシュラフ、マット類は前年に購入したもので、今回が4回目の使用であった。Tシャツはこの年に購入して初めて着たものだった。被害総額は、ざっと見積もって十数万円になるものと思われた。
「私はこのキャンプ場に8年いるが、今までこのようなことはなかった。もし盗難だとすれば、非常にけしからんことだ。再発防止のために『防犯カメラを設置する』という話になるかもしれないが、ただ、大自然のなかのこうした場所にカメラを設置するのはいかがなものかと思う」
キャンプ場の管理人はそう言って大いに憤慨し、すぐに室堂にある上市(かみいち)警察署の派出所に連絡を入れてくれた。
1時間ほどすると富山県警山岳警備隊の隊員がひとりでやってきて、簡単な事情聴取を受けた。隊員の話によると、前日に剱沢キャンプ場で起きた盗難事件では、「テントとザック以外1の盗品の一部は、キャンプ場の脇のほうに捨てられていた」とのことであった。土屋と隊員もいっしょにキャンプ場をひとまわりして、盗まれたものが捨てられていないか確認したが、なにも見つからなかった。
その後、「詳しい調書をとるので、派出所へ行ってください」と言われ、ひとりで室堂へ向かった。隊員は周辺で聞き込み捜査を行なうため、現場に残った。土屋が聞き込みに同行しなかったのは、「もし被疑者がいた場合や盗難品が見つかった場合、被疑者がなにも言わなくなったり、お互いが気まずくなったりする可能性もある」との配慮から、隊員に指示されてのことであった。
土屋がひとつ心残りに思っていたのは、前日に入れなかったみくりが池温泉のことだったので、「途中で温泉に寄っていいですか」と尋ねてみたが、「事情聴取が長引くとアルペンルートの最終に間に合わないかもしれないので、申し訳ありませんが温泉には寄らずに派出所に行ってください」と言われた。
「状況から考えれば当たり前なんですが、『せっかくここまで来ていたので温泉に入りたかったな』というのが正直な気持ちでした」
室堂の派出所では、応対した山岳警備隊員にとりあえずこれまでの経緯を報告し、相談届を提出した。隊員の話によると、このような盗難被害に遭った際の手続きとしては、「被害届」と「相談届」の2つがあるとのことだった。今回のケースでは、なくなったものが個人の所有物であることを証明するのが難しく、被害届としては受理されない可能性もあるので、まずは相談届という形で提出してはどうか、というのが隊員のアドバイスであった。
相談届でも被害届同様、捜査は行なえるし、保険請求時に必要な届出番号も発行され、その後「事件性がある」と判断されれば被害届に変更もできるという。剱沢キャンプ場で起きた盗難事件の被害者が提出したのも、相談届だった。
こうした説明を受け、土屋も相談届を提出することにした。
ひととおりの聴取が終わったころ、現場で聞き込み捜査を行なっていた隊員が派出所にもどってきた。
「手掛かりはありませんでした。すみません」
そう報告を受けたのち、アルペンルートで山を下り、その日のうちに帰宅した。