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 しかし、なにかの間違いだろうという気持ちが強く、引き返そうかという思いを打ち消した。かりに盗まれたのだとしたら、犯人はもう逃げているだろうから、引き返したところでどうにもならないという気持ちもあり、とりあえずそのまま登山を続行した。

 ここで断っておくが、登山者が数日間テントを張って周囲の山に登る場合、出掛けるたびにいちいちテントを畳んだりはしない。キャンプ地から日帰りで山に行くとき持つのは、必要な登山用具と貴重品、それに食料と水ぐらいで、テントやシュラフ、炊事用具などは置いていく。

 山で使わないものをわざわざ持つのは労力と時間の無駄であり、このことは「山ヤは他人のものを盗んだりしない」という前提のもとで成り立っている。だから一箇所のキャンプ地での滞在期間中は、たいていずっとテントは張りっぱなしのままで、登山中に使用しないものはテントの中に置く。

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 登山をしない人は「なんと不用心な!」と思うかもしれないが、登山者の間でそれが当然のこととされているのは、これまで盗難被害が報告されたことなどなかったからであろう。

やはり自分のテントがなくなっていた

 さて、この日は天気がよく、登山者の渋滞もなく、マイペースで快適に山を歩くことができた。だが、頭の片隅ではテントのことが気になっていた。雄山のあたりからはキャンプ場が見えたが、距離がありすぎてテントの有無は確認できなかった。デジカメでキャンプ場の写真を撮影してモニタで拡大してみると、テントはなさそうに見えたがはっきりとはわからなかった。

 山から下りてきたのは、午後12時半ごろのことである。キャンプ場に帰ってきてみると、やはり自分のテントはなくなっており、別のテントが張られていた。そのテントの主に「ここにテントが張られていませんでしたか」と尋ねると、「僕がここに来たのは10時半ごろですが、なにもなかったので、ここに張りました」という答えが返ってきた。

 風で飛ばされてそのへんに転がっているのかもしれないと思い、あたりを見回してみたが、それらしきものは見当たらなかった。ならばとキャンプ場の管理事務所に行き、移動したテントがあるかどうか確認してみたが、「そんなことはしていない」とのことだった。

「朝9時ごろ清掃したときにはテントはなく、ゴミが散らかっていた」

 そう管理人は言った。

「まさか、とは思うんだけど、ほんとうになくなっているんですか」

「ええ、なくなっています」

 このときに管理人から、実は前日にも、山をひとつ越えたところにある剱沢(つるぎざわ)キャンプ場で、テントと大型ザックが盗まれる事件が起きていたことを知らされた。状況からすると、土屋のテントも盗まれた可能性が非常に高かった。

 朝、土屋が途中で振り返ってみてテントが確認できなかったのは、おそらく見間違いではなかった。つまり、出発直後の6時40分から7時までのわずか20分ほどの間にテントは盗まれたことになる。テントの出入り口のファスナーには小さなダイヤル鍵をかけていたが、出入り口を絞る紐を解いてしまえば簡単に取れるので、気休めでしかなかった。