「私のころは『奇異』といってもよいほどの存在でした」
奨励会が発足したのは1928年だが、女流棋士の制度ができたのが1974年だから、歴史としてはだいぶ新しい。女流棋士の存在によって普及面を充実させるという考えのもとに始まった。そもそも将棋を指す女性の存在そのものが希少だったのだ。1961年に史上初の女性奨励会員となり、また女流棋士としても第一号である蛸島彰子女流六段は以下のように語る。
「将棋を指す女性は、私のころは『奇異』といってもよいほどの存在でした。そのうち『珍しい』ぐらいになって、それから少しずつ増えてきたという感じです」
女流棋士となる条件は、発足当時から二転三転しているが、ズバリ言いきってしまえば、棋士と比較して求められる棋力は大きく異なる。現在は研修会(奨励会の下部組織。上からS~F2というクラス構成)のB2に昇級すれば、女流2級として女流棋士の資格を得ることができる。対して研修会から奨励会に入るにはA2クラスまで昇級する必要がある。奨励会に6級で入会してからも研鑽の日々は続く。そこから四段までの9段階を駆けあがって、ようやくプロの棋士と認められるのだ。蛸島女流六段も「棋力という点では、最初から男性と同じ世界で競うことは大変でした。女流棋士制度が発足した当時は、まずは普及活動が大きな仕事です」と語っている。
だが、女流棋士や女流棋戦が増加することで女流棋界が充実すると、女流棋士の棋力も上がってきた。中井広恵女流六段が1993年に公式戦で対男性プロ相手に女流棋士としての初勝利を上げたのが、一つのエポックだろう。そして現在、里見は言うに及ばず、西山も竜王戦6組でベスト4進出の実績があり、女流棋士のトップクラスは公式戦でも実績を重ねている。
女流棋士と奨励会員の兼業が認められなかった理由
一方、女流棋戦が充実してきたことで予期せぬ反応もあった。
かつて里見も在籍していた奨励会が、女流棋士へのあらぬ嫉みをもたらす可能性があるのだ。具体的には、女流棋士と奨励会員の兼業だ。1998年から2011年まで、この兼業は認められなかった時期がある。その理由として、当時の奨励会員の不満があったとされた。女流棋士という「逃げ道」がある、と。実際、女流棋士と奨励会を兼業した者は、全員が女流棋士に戻っている。当たり前だが、男性奨励会員にはない道だ。
この制度に関しては常に公になっているので、それがわかっていて奨励会に入ったんじゃないか、ということもできるが、正論が常にまかり通れば苦労はしない。女性奨励会員が本人の責任がまったくない部分で嫉みを買うことになること、そして男性の奨励会員にも不要な心の揺らぎを起こさせる状況というのはよろしくない。奨励会員から女流棋士に転向した伊藤沙恵女流名人は「保険があってよかったですね、と面と向かって言われたのはきつかったです」と明かしている。