月刊「文藝春秋」の名物政治コラム「赤坂太郎」。2022年9月号に掲載している同コラムの拡大版「清和会7人のバトルロワイヤル」を一部転載します。

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独断文書に「それは筋が通らない」と異議

亡くなった安倍晋三元首相 ©時事通信社

 元首相の安倍晋三が暗殺されたことによる「力の空白」は、自民党内の権力構造を大きく変えようとしている。

 思い起こせば、1991年5月に安倍晋三の父親である晋太郎が病に倒れた後、三塚博と加藤六月が「三六戦争」と呼ばれる激しい派閥の跡目争いを繰り広げた。この2人に森喜朗、塩川正十郎を加えた4人が「安倍派四天王」として君臨。自分より10歳若い実力者の森を味方につけた三塚が後継の座を奪取した。だが、今回は様相が全く異なる。清和会(安倍派)の後継を狙う有力者の不在が、遠心力を強めているのだ。

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 安倍死去の直後、まず突っ走ったのは清和会事務総長の西村康稔だった。凶行の翌日、安倍の遺体が東京・富ヶ谷の自宅に戻ると、西村は弔問客の対応を取り仕切った。この日訪れたのは首相の岸田文雄をはじめ、森や小泉純一郎、菅義偉ら首相経験者、現職の自民党三役など。西村は自らの存在をアピールするかのように安倍宅の玄関先から遺体が安置された3階まで彼らを案内するなど動き回った。

 派内の不興を買ったのは、彼が独断で決めて配布した文書だった。そこには「弔問はお受け致しません(清和研会員であってもご遠慮ください)」と記されていた。この文書は、派閥が百鬼夜行の混乱状態に陥る遠因となった。経産相の萩生田光一や安倍政権で官房副長官を務めた西村明宏らは「それは筋が通らない」と異議を唱え、安倍宅へ向かった。父晋太郎の仏壇横に安置された棺に眠る遺体のすぐ側に陣取っていたのは、西村康稔だった。後から来た安倍派会長代理の塩谷立と下村博文は、棺の後ろで手を合わせていた。

「事務総長だからという理由は立つが、それにしても動きが露骨だったね」。温厚な性格で他人の悪口を滅多に言わない会長代理の塩谷も思わずこう漏らしたほどだが、西村のスタンドプレーはその後も続く。

「世話人会方式」の崩壊

 7月11日午後6時、増上寺。安倍の通夜の参列者は2500人にも及び、長蛇の列ができた。祭壇横の会場の出口前には、妻の昭恵、安倍の実兄の寛信夫妻が立ち、その横には車椅子に座った実弟で防衛相の岸信夫夫妻が並び、延々と続く弔問客を最後まで見送った。

 耳目を引いたのは会場の外だった。弔問客が遺族に挨拶して会場から外に出るとすぐ横の通路には、安倍派の幹部がずらりと並ぶ。さらに外に出ると、そこには西村が一人で立っていた。