映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」
そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。
というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。
新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。
湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。
なぜ「新開地」が生まれたのか
ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。
そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。
いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント
もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。
湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。
そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。
ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。
ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。
いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。