映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ
そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。
さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。
こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。
浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。
町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ
しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。
戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。
加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。
そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。
そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。
本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。