文春オンライン

「もっとモテたい、もっと儲けたい」で“数字の奴隷”に…イケイケのIT起業家が“資本主義”を捨てて“出家”するまで

小野裕史さんインタビュー#2

2023/02/25
note

 ベンチャー投資家・アドバイザーとして「ジモティー」や「グルーポン」の立ち上げに関わり、「17LIVE」のCEOを務めるなど日本のIT業界を牽引してきた小野裕史さん。南極や北極、サハラ砂漠などでの過酷なマラソンに参加してきた冒険家の顔も持つ。そのアグレッシブな人が、突如、地位も仕事も捨ててインドで出家したという。いったい彼の人生に何があったのか。その紆余曲折の驚きの人生と出家への覚悟、そして仏教への想いなどを2回に分けてお届けする。(全2回の2回目/#1から読む)

◆ ◆ ◆

学校のノートは1学期で1ページしか使わない

――前編では、IT企業のCEOを辞めた後、私が書いたノンフィクション『佐々井秀嶺、インドに笑う』を読まれて、インドで頭を丸められた話をお聞きしましたが、後編では小野さんの怒涛の半生をうかがいたいと思います。

ADVERTISEMENT

小野 はい。まず生まれは札幌の、どちらかというとお金のない家に生まれました。

――東大、日本IBMというご経歴から、お坊ちゃんなのかと勝手に思っていました。

小野 全然、違います(笑)。物心ついた時には、母が雪の中でお弁当売りをしていたのを覚えています。そうした両親の苦労を見ていたので、無駄使いをしてはいけないと、小学1年生の時の学校のノートは、1学期で1ページしか使っていないんです。

小野裕史さん

――1学期で1ページ⁉

小野 ものすごく小さい文字で呪文のようにびっしりと(笑)。先生から見て、ちょっと気持ち悪い子供だったかもしれません。

学校の先生に呼び出された母は泣いて帰ってきた

――ずいぶん極端な子供だったんですね(笑)。ノートはともかく、その頃から活発だったのでしょうか?

小野 いいえ、まず、運動は全くのオンチで、成績は上中下の下。さらに国語の「話す技能」も下だったのは、コンプレックスとして覚えています。小学校の低学年のころ、学校の先生から母が呼び出されたんですけど、泣いて帰ってきました。後になって聞いたら、「ほかの子が100喋れるところを20しか話せません。裕史君は白痴です」と言われたと(笑)。

――白痴⁉ 差別的表現とされ、今ではほぼ聞かない単語ですね。

小野 ええ(笑)。母はもう大ショックで。その頃の僕は、あまりにも内向的で人に想いを伝えることができなかったようで、親戚がうちに電話してきても、僕は「あ~、う~」と言ってばかり。全然、話が進まなかったようです。よく「公衆電話から裕史君と話す時は、10円玉がたくさん必要だね」とからかわれました。

――とても社交的で、何百人もの前で堂々と講演する今の小野さんからは全く信じられませんが(笑)。

小野 ですよね。だからと言って、学校でいじめられたりすることもなかったし、両親は大事に育ててくれたんですが、だんだんお腹が痛いと仮病を使って学校を休むようになり、心配した両親に病院へ連れていかれて。