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“親子2代”で日本のエネルギー確保に携わる

 一見、複雑怪奇な田中の生涯を追う上で、国内外の多くの人々が力を貸してくれた。その一人が、田中の家族、長男の俊太郎である。

 1969年の春、慶應義塾大学の理工学部を卒業した俊太郎は、大手電機メーカーの東芝に入社した。当時の社長は、清玄と親交があり、後に経団連会長も務めた土光敏夫。だが、就職では父に全く相談しなかったという。そして入社早々、配属されたのが、火力発電所の制御システムを扱う部署だった。

「元々、自分は大学でコンピュータ制御をやってたんで、入った時に、制御をやりたいと言った。そしたら、『これから物凄く忙しくなる分野がある、コンピュータ制御だ。君はそこだ』と。それで、東京電力の火力発電所は、横浜とか、ほとんど知ってますし、九州電力の唐津や佐世保、北九州とかも行きましたね」

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写真はイメージ ©AFLO

 父の清玄が海外からもたらした油、それを燃やす発電所を、息子の俊太郎が担当する。いわば、親子2代で、日本のエネルギー確保に携わった形だった。

 そして、この頃、電力業界も大きな転換期を迎えた。中東の産油国や国際石油資本に左右されない期待のエネルギー、原子力発電である。

 すでに東芝は原発に参入し、米国のゼネラル・エレクトリック社から軽水炉、その沸騰水型の技術を導入していた。東京電力の福島第一原発では、その一号機の圧力容器などを担当し、二号機にも周辺機器を納入した。これらが12年前、東日本大震災による津波で冷却機能を失い、史上最悪レベルのメルトダウン事故を起こす。

 だが、初めは清玄も、原子力をごく自然に受け入れていたという。

「私が東芝に入った頃は、原子力発電所建設の初期で、これから盛り上がっていく時でしたね。その社長の土光さんも、発電所をぼんぼん作ると。うちの親父も、日本には石油がないから、やっぱり、原子力だと。『おい、俊太郎、お前も、しっかりやれ』って。一時期、しきりにそう言ってたのが、晩年は変わりましたね。要するに、危ないと、非常に危険だと」

田中が使うのを嫌がっていた“言葉”

 自分の息子が就職した会社、そこが関わる原発に懐疑的になり、やがて真っ向から反対するようになった。しかも、それは、ソ連のチェルノブイリや福島の事故の前、1980年代初めだ。その理由を、本人は生前、放射能漏れは現代の技術で防げないからと語っている。だが、それだけではなさそうだ。

 これは原発と直接関係ないが、俊太郎は、学生時代から、あることでよく父に叱られたという。

「『絶対』という言葉を使うのを嫌がってましたね。僕らが、うっかり、絶対大丈夫だとか、正しいとか言うと、まぁ、怒られました。何で、そんなことが分かる。絶対なんて、世の中にないんだ、よく見てみろと。確かに物理学でも、そうなんです。昔、真理だと言っていたのも、変わってくる。思想とかも、そうですよね。時が経てば、状況次第で変わっていく。絶対というのを信じちゃいけない、それは、よく言ってましたね」