1ページ目から読む
3/4ページ目

 その田中の念頭にあったのか不明だが、かつて石油危機の時、東京電力の幹部が発した言葉が残っている。

 1973年10月、第四次中東戦争の勃発後、アラブの産油国は、原油の禁輸と大幅値上げを発表した。これに震え上がったのが、日本の電力会社だった。当時の主力は火力発電、しかも、その燃料のほとんどを中東に依存していた。燃料枯渇に怯えた彼らは、国の支援も受け、原発推進を加速させる。その最中、東京電力の原子力開発本部長の田中直治郎副社長は、こう発言した。

「確かに原子力発電には安全性の問題があり、これを徹底的に研究し解明する必要があるが、しかし、現在の軽水炉は絶対に安全だ。二重、三重に安全装置を設計してあるし、大きな事故は考えられない」
 

「賛成、反対の両者が理論的な争いだけを戦わして平行線を辿っていては日本のエネルギー問題は解決しないだろう」(「電気新聞」1973年12月6日、傍点筆者)

 今、この副社長の言葉を振り返ると、様々な感情が胸に浮かぶ。むろん私たちは、12年前、福島で、絶対安全な軽水炉に何が起きたか知っている。後知恵で責めるつもりはないが、重要なのは、当時、電力業界に起きた変化だ。それは、石油危機が生んだ強烈な使命感とでも言おうか。この使命感が、やがて驕りに変わり、あのメルトダウン事故の遠因になっていく。

ADVERTISEMENT

 そうした原子力専門家に、田中は、言いようのない不安と警戒心を抱いたようだ。ある対談で、こう言い放った。

「ところがバカな人間がいるもので、エネルギー問題というと原子力発電さえやればいいと思って、ウラン、ウランと騒いでいる」「本当に『ウラン馬鹿』だ。自分のセクションだけを絶対だと思っている」

原発稼働の命運を握るウラン

 折しも、それから半世紀、再び、石油危機が世界を襲った。ロシアのウクライナ侵攻で、原油と天然ガスの価格が高騰し、電力会社を直撃した。火力発電の燃料費に苦しむ彼らは、原発再稼働を訴え、それを政府も後押しする。

 岸田政権は、原発回帰を鮮明にし、運転期間の延長や新規建設も決めた。福島の事故以来の政策の大転換である。

写真はイメージ ©AFLO

 油がないからと、発電所は店仕舞いできない。国が潰れてしまう。こうなったら、もはや、原発しかないじゃないか。それでも反対するなら、対案を出せ。こうした空気は、半世紀前のあの時とそっくり重なる。

 そして、田中が原発に反対した理由は、これだけではなかった。