1ページ目から読む
2/5ページ目

 同じホヤの養殖漁師、遠藤謙市さん(53)は港に面した漁協支所にいた。海抜50mほどの場所にあった自宅へ急いで戻る。寄磯浜では急勾配の山肌や谷にへばりつくようにして建てられた家が多く、遠藤さん宅もそうだった。家を支える石垣が壊れ、基礎が揺らいではいたものの、家族は無事だった。すぐに港へ引き返して、船で沖へ出た。

 津波の来襲時、港に船を係留していたら、波に呑まれて転覆するなどしてしまう。このため沖合に出すのが漁師の常識だ。遠藤さんは「沖では津波が壁のようにならず、海面が盛り上がって、また下がるような感じでした」と話す。

 ただ、出航にはリスクも伴う。遅れると押し寄せる波や、港内で巻く渦に抗えない。寄磯浜でも命を落とした漁師がいた。

ADVERTISEMENT

 寄磯浜全体では逃げ遅れも含めて13人が犠牲になった。

避難した漁師が上陸できたのは翌日だった。そして目にしたのは――

 漁業施設や倉庫は一瞬のうちに瓦礫と化して海に流れ込み、港は漁船が航行できるような状態ではなくなった。岸壁は沈下し、満潮時には腰の高さまで浸かる。防潮堤も倒れて、太平洋の荒波が直接岸に押し寄せることもあった。

 このため、沖合へ避難した漁船は岸壁に近づけなくなった。

 遠藤さんは「寄磯浜の船はまとまって停泊していました。陸上と携帯電話がつながらず、浜がどうなっているか分かりません。家族のことも気になります。漁船に小型船を曳航して逃げた漁師がいたので、小さい船なら近づけるかしれないと、1日経ってから仲間と陸へ向かいました。なんとか瓦礫を避けて上陸することができましたが、私が自分の船で瓦礫のない場所を選びながら港に戻れたのはその翌日でした」と話す。

ここまで浸かったという印が集落のあちこちにある(寄磯浜)©葉上太郎

 100隻ほどあった漁船は30隻ほど助かったろうか。

 寄磯浜の人々がまず取り組んだのは、瓦礫の撤去だ。東北から北関東にかけての太平洋岸では、浜という浜が被災し、行政による瓦礫撤去は期待できなかった。工事業者が足りないからだ。しかし、早く漁を再開させなければ収入がない。多くの浜では漁師自身が瓦礫撤去を行った。

 沖の養殖イカダはぐじゃぐじゃになり、まだ使えるブイを取り外して回収することしかできなかった。

 何カ月もかけて、港内の瓦礫を引き揚げては処分した。イカダも一つ一つ手作りしなければならない。ボランティアが手伝いに来てくれた。養殖を再開できたのはその後だ。ただし、ホヤではなくホタテからだった。

なぜホヤではなくホタテから養殖を再開したのか

 ホヤは育てるのに時間がかかり、すぐには再開できなかったのだ。ホヤの養殖はまず海に生息している幼生を採苗しなければならない。適地とされていたのは鮫浦湾でも最湾奥の谷川浜だ。津波の波高は湾奥になるほど高くなる性質があり、谷川浜の被害は鮫浦湾の漁師集落では最も酷かった。そのような状態にありながらも、港を自分達で使えるようにして、採苗し直さなければならず、しかも採苗から養殖イカダに吊るせるようになるまで育つには1年という時間も必要だった。