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「この手の難クセをつけたがる人間は了見が狭いんですよ」映画監督・押井守が語った「映画の観方がものすごく貧しい人」に足りないもの

『押井守の人生のツボ2.0』 #1

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「ただの1本も無駄な映画は作っていない」

押井:わたしは、ただの1本も無駄な映画は作っていない。というか、そういう自覚はない。それぞれがテーマを持っていて、それぞれ試みも異なるわけだから、違う映画になるのは当たり前。にもかかわらずファンの多くは、基本的に全部が『攻殻』(『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』1995)や『パトレイバー2』であってほしいわけですよ。

「税金だと思って、お布施だと思って今回も買うけどさ」なんて言われて、みんな、わたしが食えなくなったらもう新作にお目にかかれないからというので買ってくれている。それはもちろんありがたいですけどね。

――押井さんは、いつも『パトレイバー』のような映画を作ろうとしているわけじゃないですよね?

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「100人中5人に楽しんでもらえばいい映画を作る場合もある」©文藝春秋

押井:そうです。100人中100人を喜ばせたいから作る映画もあれば、確信犯的に100人中5人に楽しんでもらえばいい映画を作る場合もある。(ジェームズ・)キャメロンはいつも95パーセントの人を満足させるような映画を作ろうとしていると言っていたけど、わたしはそんなつもりはない。

 製作費だってかけたほうが偉いとか傑作になるわけじゃない。50万円で作った映画でも傑作は傑作ですから。つまり、みなさんがダメという判断を下した作品にも押井守らしさはちゃんとある。だってわたしが作っているんですから。そういうのを見つけ出して褒めるべきだと思うんですよ。

――あ、判りました。『28 1/2妄想の巨人』(2010)を観たときそう思いました。短い作品なのに、無駄なシーンが多くって押井さんらしいって(笑)。

押井:そう、そういうことです。こういう評論に関する問題は、映画よりもゲーム界隈でよく起きる。ゲームにはクソゲーと神ゲーしかない。それしかないの。この前初めて「優ゲー」という言葉を見たけど、一般的じゃない。評価がそのふたつしかないもんだから、神ゲーのレベルは下がりまくり。神ゲーと呼べるものは年に1本あればいい。映画と一緒です。『ブレードランナー』(1982)が毎年あったらおかしいということです。

 逆に言うとクソゲーは、それこそ山のようにある。何をもってクソゲーと言っているのか、その基準も人それぞれ。そもそもゲームにすらなってないというレベルから、気持ちは判らんでもないけどというレベル、さらには何を考えてこれを作ったのか理解できないというのもある。クソゲーにもいろんなレベルがあるにもかかわらず、ひとまとめに「クソゲー」。一方、少しいいじゃんとなると、すぐに「神ゲー」ですよ。

――でも、クソゲーという表現、かわいい響きもありますよね。