『永遠と横道世之介』(吉田修一 著)毎日新聞出版

 私が横道世之介と出会ったのは2009年。世之介は私の2歳下だが同世代、なんだか遠い友だちのように感じていたので、大人になった世之介の顛末を読んだときには衝撃を受け、いっそ、ミザリーよろしく作者を監禁して世之介の未来を書き換えさせようかと真剣に考えたほどだった。

 この「永遠と横道世之介」では、30代後半の世之介に会うことができる。本書にも書かれているとおり「横道世之介」「続 横道世之介」を未読でも、すんなりと入りこむことができる。

 小説は2007年の9月にはじまる。38歳の世之介は、調布寄りの吉祥寺にある下宿、ドーミー吉祥寺の南で、大家のあけみと夫婦同然に暮らしている。下宿人は大学生谷尻くん、書店員大福さん、もと芸人の礼二さん。そしてこの9月から、世之介の知人である中学教師のひとり息子で引きこもりの一歩があずけられることになる。

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 9月からはじまって、ゆっくりと季節はまわる。ドーミーの住人たちはくだらない話で盛り上がり、笑い続けて日が過ぎていく。ブータン人のタシさんがしばらく逗留し、朴訥な谷尻くんが恋に落ちてサーフィンをはじめ、世之介のアシスタント、江原の結婚が決まる。あけみの調理する、旬の料理が全体からあたたかく漂ってくる。

 そんな日々のなか、登場人物それぞれの来しかたがさりげなく挿入される。あけみの祖母が下宿をはじめたきっかけや、世之介の両親の出会いと結婚、そして出産。世之介の恋人だった二千花との日々。

 そんなことは一言も書かれていないのに、いつしか、人はなぜ生まれてなぜ生きるのか、という問いを投げかけられている気持ちになる。そうしてはたと思う。世之介が連載仕事を得て撮り続ける風景、その風景のなかにいる人々。もと芸人の礼二が偶然出会う、彼にとっての神さま的存在。ここに描かれる2007年から08年への1年は、たんなる過去ではなくて、今私たちがいる現実のパラレルワールドみたいじゃないか。今にいたる15年のあいだ、起きたことは起きず、失われたものは失われず、なくなったものはなくなっていない。そんな世界が、過去ではなくて、今現在もどこかにある。そんなふうに思えてくる。なんて貴重な時間を私たちは持っていたのかと気づかされ、その気づきは今現在の、なんということもない私の一日を照射する。何をしたともいえない今日、何を笑ったかも何を話したかも覚えていないだれかとの会話、それだってもう、二度とは戻らない。ならばどう生きるか。ならばどう、生きることに意味を見出すか。私たちの一瞬の生を、どのように永遠の一部に結びつけるか。まったく大げさではない言葉で、ばかばかしいくらいシンプルに、この小説は、いや、世之介という男は、ものすごく重要なことを私たちに教えてくれる。

よしだしゅういち/1997年「最後の息子」で文學界新人賞、2002年『パレード』で山本周五郎賞、「パーク・ライフ」で芥川賞、07年『悪人』で毎日出版文化賞と大佛次郎賞、10年『横道世之介』で柴田錬三郎賞、19年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞。
 

かくたみつよ/1967年神奈川県生まれ。2005年『対岸の彼女』で直木賞。近著に『ゆうべの食卓』『明日も一日きみを見てる』。