私は垣根涼介さんの歴史小説の愛読者ではなく観察者だ。なぜなら、私にはいつか歴史小説を書いてみたいという野心があるから。東南アジアや南米を舞台にした冒険小説でデビューした垣根さんが、どのようにして歴史小説でも成功したのか、その秘密をぜひとも解明したいと思っている。
垣根さんの独創は、歴史上の人物に思いもかけない定理・原理をあてはめ、一見、不可解な選択や行動をミステリーのように謎解きしていくところにある。それは「極楽殿」と揶揄された足利尊氏でも同じだ。
今回の「原理」は、冒頭に掲げられたブルース・リーの言葉で、香港の民主化運動のスローガンにもなった「水になれ」だ。
源氏に連なる足利家の棟梁として、鎌倉の北条氏を滅ぼし、次いで後醍醐天皇の南朝と戦い室町幕府を打ち立てた尊氏は、権力の権化のように思えるが、じつは水のように融通無碍に生きてきただけだった。
鎌倉・室町時代の武士たちの行動には、わたしたち現代人の常識では理解しがたいところがある。とりわけ尊氏は不思議なキャラクターで、後醍醐天皇の倒幕に呼応して北条氏に反旗を翻し、建武の新政の立役者になったものの、政(まつりごと)は弟の直義と、足利家の執事である高師直らに丸投げしてしまう。恩賞をめぐって配下の武士と天皇が対立したときは、朝敵となるのを怖れ、赦免を求めて寺に籠り断髪までしている。
まさに優柔不断そのものだが、直義が危機に陥ると、一転して兵を率いて死地に身を投じ、九州まで落ち延びてから態勢を挽回、京都を奪還して武家の頂点に立つ。だが権力を極めたまさにこのときに、「この世は夢の如くに候」と述べて、ふたたび政を放棄してしまうのだ。
この当時、武士たちは自らの所領を命がけで守り、相手の所領を力ずくで奪い取らなければ生き残っていけない過酷なゲームを強いられていた。庶子に生まれ、権謀術数のなかに放り込まれた尊氏には、これが憎しみ以外なにも生まないゼロサムゲームだとわかっていたのだろう。だからこそ、なんとかして俗世から逃れたいと願った。
そんな尊氏は、「ほんとうの自分」を探す旅を続ける現代人によく似ている。皮肉なのは、それにもかかわらず、もっとも信頼していた側近の高師直が内紛を起こし、次いで最愛の弟・直義と血で血を洗う戦いを繰り広げた挙句、相次いで死なせてしまったことだ。
天皇や武士たちの欲望と怨念に翻弄され、あるときは投げやりになり、あるときは命懸けで戦った尊氏は、最後まで人生に迷い、「自分さがし」をやめなかった。
本書によってはじめて、そんな奇妙で魅力的な人物を理解できたように思うが、ただ、どのようにすればこのような完成度の高い歴史小説が書けるのか、その謎はまだ解けない。
かきねりょうすけ/1966年長崎県生まれ。『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞。『ワイルド・ソウル』で大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞。『君たちに明日はない』で山本周五郎賞。他著に『信長の原理』『涅槃』など。
たちばなあきら/1959年生まれ。『言ってはいけない』で新書大賞。近著に『バカと無知』『シンプルで合理的な人生設計』。