そこに着目し、「うちでつくりましょう」と申し出たのが、後に8代将軍となる徳川吉宗の紀州藩。同藩の統治下にあった白子(しろこ)(現・三重県鈴鹿市)で柄の型紙(伊勢型紙)を製作し、藩が保護をした。諜報活動をする御庭番と連携して「型紙商人」が全国各地に売り歩き、広まった。江戸中期になると、町人にも小紋に染めた着物や羽織を着る人が増え、男女共に愛用されるようになった。
当初は、着物文化の中心・京都でつくられた着物が江戸に運ばれてきていたが、人口百万人を超える大都市となった江戸でも着物がつくられるようになった〉
江戸小紋にはざっくりそんなヒストリーがあると楽しそうにご説明くださる富田さんに、さっそく“江戸小紋愛〞を感じずにはいられなかった。
染織工房の帝王学
1968年、「東京染小紋」の名称で国の伝統的工芸品に指定された。その中に単色の江戸小紋と、何枚もの型紙を合わせて多色に仕上げる「東京おしゃれ小紋」がある。富田染工芸では、長年その両方を手がけてきたと聞き、ウインドー内の反物を改めて熟視する。おそらく1ミリ以下の細かさの鮫小紋、小さな正方形が並んだ角通し小紋、霰(あられ)が斜めに並んだ行儀小紋……。よくぞまあ、と思うほど精緻だ。華やかさと渋みが共存していて、しっとり品がある。
——富田さんは何代目でいらっしゃいますか?
「5代目です。弟と妹がいますが、うち(の後継)は一子相伝なんです。私は4、5歳から祖父に連れられて京都へ行ったりして、帝王学を学んできました」
——京都? 帝王学?
「当時、京都で毎年『新作図案展』が開かれていたので、目を養わせるために祖父に連れていかれたんですね。私の子どもの頃は、職人が130人いて、大きな家族のようでした。後継ぎになるよう育てられました」
曰く「帝王学」は、精神論や経営に関してのみにあらず。祖父や父、そして職人たちがおこなうすべての工程の技の習得も、伊勢型紙の修理依頼といった実務も、親戚のいる秋田や栃木の中学を回っての求人活動の補佐もと多岐にわたった。富田さんは、他業種の商品企画や流通を勉強するため、大学卒業後、7年間、婦人服メーカーに勤めた後、家業に戻り、5代目を継いだ。
「弊社は、着る人をどうやって喜ばせるかと常に考え、追求してきたんです。江戸・東京の洒落心に通じると思います」
着物業界は、1981年をピークに下降線をたどっているが、富田さんはプラス思考だ。気軽に着物のクリーニングやメンテナンスをおこなう「悉皆屋(しっかいや)」部門を立ち上げたり、現代の暮らしに沿うネクタイやスカーフなどを小紋柄で製作したり、パリにショップをオープンしたり。新たな取り組みにも励んできた。