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 何しろ、いまの福島県エリアには、23万石という大藩の会津藩があった。他にも白河藩10万石、棚倉藩6万石、中村藩6万石、三春藩5万石、二本松藩5万石。つまり、江戸時代という時期に限れば、福島は現在の福島県内の藩の中では下の方だったのだ。

 それでも、福島の町は藩の規模以上に栄えていたようだ。その理由は、交通の要地だったから。ひとつは、江戸と東北を結ぶ大動脈の奥州街道の宿場町。そしてもうひとつは、阿武隈川の河岸町として、物流の中心になっていた。

 いまはクルマや鉄道が物流の中心だが、当時は河船がそれを担っていた。だから、阿武隈川の流れる福島は、周辺の米や生糸などの物産の集積地となり、商業都市としての賑わいを持っていたのである。

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 その頃の福島の町の中心は、もちろん駅などではなくて福島城。そして城下町を抜けていた奥州街道だった。奥州街道は、南側からいまの中心市街地にやってきて、レンガ通りを辿って県庁通りにぶつかってからは北東に抜ける。つまり、レンガ通りは江戸時代以来の福島の中心といっていい。

 例の駅前通りからレンガ通りに名前が変わる四つ角は、もともと四つ角ではなく鍵形に南から東に曲がる奥州街道の角だった。明治に入り、鉄道が通って福島駅が開業したことで駅前通りができて、四つ角になったというわけだ。

幕末、日本の動乱は「福島」にも大きな影響を…

 幕末から明治のはじめにかけて、福島県の諸藩は荒れた。大藩の会津は会津戦争の舞台となって荒廃した。太平洋沿いの浜通りは、のちに常磐炭田の町として栄えることになるのだが、まだまだそれは先のお話。

 白河も二本松も、会津とともに戦った奥羽越列藩同盟の一員。福島とてそうであったが、福島藩の城下町というよりは阿武隈川水運と結びついた奥州街道の商業都市としての存在感が大きかったのだろう。

 そもそも、人口1位の郡山は明治以降に開拓された町だから、その頃はほとんど何もないに等しかった。福島の県庁所在地が、ここに置かれたのは、そうしたいくつかの理由があったからなのではないかと思う。

 

歓楽街の外れに残る歴史の足跡

 そして、物資が集まる町には人も集まる。人が集まれば遊ぶ場所も必要、ということで、奥州街道筋の北側には花街が生まれた。そのかつての花街が、いまは福島駅の少し北から東に延びる中央通り・北裡通りと呼ばれるエリア。

 奥州街道から見れば裏通りにあたる道筋だが、花街に由来して明治に入っても飲食店や劇場などができて賑わった。東京・浅草の「浅草六区」にちなんで、「福島六区」などと呼ばれたとかなんだとか。