その間もソロ活動には恵まれた。1988年には、当時史上最年少座長として大阪・新歌舞伎座で『沖田総司』を1ヵ月公演。2年後の1990年には、坂東玉三郎演出で『なよたけ』に主演する。さらに翌91年には、『スパニッシュ・ミュージカル バルセロナ物語』で単独ミュージカル主演を務め、ジーン・ケリーとフレッド・アステアの写真を自宅に飾るほど好きな彼はジーン・ケリーの名作ミュージカル『雨に唄えば』まで1996年に主演している。(「婦人公論」1997年9月号)
森光子、山岡久乃、松方弘樹、若山富三郎、萬屋錦之介 と、名優たちに可愛がられた。それにしても東山が不思議なのは、毎回舞台のパンフレットやインタビュー記事などで、読者が若干野暮に感じるほど、自分自身の努力を語るところだ。
ダンスの名手でもあり、何でもそつなくやってのけるイメージがあるが、自身のエッセイ『カワサキ・キッド』でも「もともと僕は不器用で緊張するタイプだ。いまもそれは変わらない」 と書いていて、実はコンプレックスを抱えているのかもしれない。
《せりふを覚える、演じるということは、国語の勉強と同じだと思うんです。僕はいつも辞書を片手に、意味がわからない言葉は、まず辞書を見て意味を理解して……(略)》(「せりふの時代」2004年春号)
《(『雨に唄えば』は)早く幕が開いてほしいと思ってました。タップだけで半年以上稽古しましたからね》(「ソワレ」1996年7月号)
《最近は亡き中村歌右衛門さんの映像を見たり、玉三郎さんにお話をうかがったりして勉強しています》(「トップステージ」2008年4月号)
《いま、知り合いの歌舞伎役者に女形について聞きまくってるところです(笑)。女形の声について“裏声と地声どっちで語るの?”と聞いたりね。(略)あと舞に関しては僕は1年半ほど日舞を習っていたことがあるんですけど、京劇の舞はまた別物なので、いま先生について少しずつ指導してもらっているところです。もちろん、中国史に関する資料も読み始めてますよ。蜷川さんに怒られないようにね(笑)》(「トップステージ」2008年2月号)
そんな東山を蜷川幸雄は「稽古前に色んな構想を描いてきたのかもしれないけど、全部、裏切ってやるよ 」「ヒガシをグチャグチャにするからな」と言って迎えている。(「LOOK at STAR!」2008年4月号・3月号))
壮絶な幼少期に助けてくれたのは在日コリアンの母子
東山紀之は白系ロシア人の血を8分の1引いており、幼少期、川崎駅近くのソープランドが密集する界隈、同じ川崎・桜本のコリアンタウンなどで育った。彼が毎日たゆまず筋トレを続けているのは、生後8ヵ月で父方の祖父が酔ってひっくり返した熱湯を両足に受け、大ヤケドで左足が変形したことに由来している。
左足をかばいながらも、徒競走ではいつも一等賞で、9歳でバック転をこなすほど運動神経がよかった。しかしデビュー直後の19歳の時、長年かばい続けた左足が悲鳴をあげる。股関節が激しく痛みだし、左足の軟骨がすり減ってしまったのだ。
医師からは「軟骨は増やせないから筋力で補うしかない。バランスよくトレーニングしていかないと、軟骨に負担がかかり、将来踊れなくなる危険がある」と告げられた。筋トレを続けるしか、演者として生きる道がなかったのだ。
このヤケドと父の酒乱と借金が引き金となり、東山の母は、彼が3歳の時に東山の妹も一緒に連れ、父と離婚する。小学4年で母は再婚するが、2人目の父もまた母や東山のみならず、妹にまで暴力を振るうようになる。理髪師として働き詰めだった母が再婚するまでは、同じコリアンタウンに住む在日コリアンの母子が何かと世話を焼いてくれたという。