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「LD(学習障害)の本には、たいがい私の名前が出てきます」

「さあ、なんでも話してごらん。話したいこと、全部」

 普通の小学校で問題児とされ転校することになった主人公トットちゃんを、トモエ学園で迎える小林宗作校長がそう語りかける校長室のシーンは、原作のセリフそのままである。だが、それに対してトットちゃんが返す言葉は、「この映画が何をテーマにした映画なのか」ということを鮮烈に観客に印象付ける。

トットちゃんの話をじっくり聞いてくれる小林校長 © 黒柳徹子/2023映画「窓ぎわのトットちゃん」製作委員会

「あのね、すっごく早かったの。ビューンって景色が後ろに飛んでいくのよ。キップがこんなにたくさんあって、ちょうだいって言ったんだけど、くれなかったの」

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 主人公、トットちゃんの言葉には主語がない。自分と相手の情報の差を埋めるための説明がない。それが何についての話かという前置きがないまま、次々と思いつくままに話題は変わっていく。小林校長はただその言葉を正さず、ひたすら、「それから?」と、トットちゃんの流れる水のように自由な発話をうながす。

「LD(学習障害)の本には、たいがい私の名前が出てきます」と2006年の単行本新装版あとがきに黒柳徹子が書いているように、LD、ADHD(注意欠如・多動性障害)の児童を描いた作品として『窓ぎわのトットちゃん』が読解されるようになったのは、刊行からかなりの月日が経ってからのことだ。

 エッセイ『小さいときから考えてきたこと』(新潮文庫)の中の一章「私ってLDだったの?」でも記すように、当時も今も医師から診断を受けたわけではないものの、今や多くの専門家から『トットちゃん』がそのテキストと見なされていることに彼女は驚き、そういう子どもたちの力になることを願うことを記す。

 実は、『窓ぎわのトットちゃん』の文章は極めて独特である。「自由が丘の駅で、大井町線から降りると、ママは、トットちゃんの手を引っ張って、改札を出ようとした。」という書き出しの一文からもわかるように、ほぼすべての文節に読点「、」が打たれている。  

 これは初めて文章を書く小学生がそうするような書き方だ。普通の編集者なら「この句点は整理しましょう」と直してしまいたくなるだろう。だが、この子どもの文章のような読みやすさとそこに込められた内容の深みがあってこそ、『トットちゃん』は世代も国境も超えるベストセラーになったのだ。

アニメーションによって付加された価値

 今作のアニメ版『トットちゃん』の中でも、LDやADHDという言葉が出てくるわけではない(戦前を舞台にした作品なのだから当然だ)。しかし映画は、普通の学校教育の中で疎外され、「窓ぎわ」に追いやられる子どもたち、そしてその親たちが「トットちゃんのしゃべり方は、自分たちと同じだ」と思える、窓ぎわの子どもたちに寄り添った描写を重ねていく。この描写のリアリティは、原作のテキストを守りつつ、アニメーション版が新たに付加したものである。