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74回目の紅白歌合戦

紅白出場の「NiziU」「LE SSERAFIM」に作詞、楽曲提供…“中卒音楽プロデューサー”が経験した過酷な下積み時代

紅白出場の「NiziU」「LE SSERAFIM」に作詞、楽曲提供…“中卒音楽プロデューサー”が経験した過酷な下積み時代

『夢の叶え方はひとつじゃない 私は、中卒作詞作曲家』より #1

2023/12/31
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組んだバンドは空中分解、貧乏生活、それでも…

 今度は、バンドを組もう! と、だいぶ年上のメンバーと共に、憧れていたソウル系バンドのボーカルを担当。活動開始。精力的に活動し、大きいステージで歌う日もありましたが、最終的に私の至らなさで、バンドは空中分解。

 気がつけば、私は20歳になっていました。

 中学時代の先生から、卒業のときに「いざとなったら、1、2年遅れでもいいから、高校に行き直せばいい」と言われていました。でも、20歳で高校1年生というのは、なかなかに厳しい。

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 人とは違う道を、私はすでに5年も進んできてしまった。みんなと同じ道には、もう戻れない。「もうこの世界で、音楽業界で、生きていくしかないんだ」と腹をくくりました。

 その頃はお金もなく、絵に描いたような貧乏生活。手にしたバイト代は、一瞬でアーティスト活動費に消え、中華料理屋さんのダクトから出てくる匂いをおかずに、塩にぎりを食べていました(笑)。もともと「いざお金がなくなったら、どんな仕事でもすればいい」と考えていましたが、それは甘かった。アルバイトとの両立は多忙を極め、一時、足を踏み入れていた夜の世界では心のかけ引きが相当ハードでメンタルを消耗。

 どの仕事も、そんな生半可な気持ちで務まるようなものではありませんでした。 

 やっぱり、音楽で食べていきたい。夢見る気持ちがどんどん強くなっていきました。

写真=岡嶋かな多さん提供

20歳から「仮歌」の仕事をするように

 15歳で本格的に音楽を始めてから、音楽だけで食べていける! と思えるようになるまでには、10年かかりました。

 バンド活動が行き詰まってからは、再びシンガーソングライターにシフトチェンジ。代々木公園で路上ライブをする日々。

 そのかたわら、18歳から23歳までの6年間、渋谷のCDショップでアルバイト。

 そして、20歳くらいから、音楽スクール時代の先輩に声をかけられ、「仮歌」の仕事をするようになりました。

 作曲家が作った曲を、レコード会社などに提案する際、メロディーが伝わりやすいように、音源には仮の歌が入っています。それを歌う仕事です。