私自身は中高生のときに熱中した戦車の模型作りを5年前に復活させ、楽しく熱中しています。今は実車の資料写真も手に入りやすくなり(むかしは洋書を取り寄せていました)、塗装やウェザリングの道具も進歩して、模型も精巧かつリアルになって、その分、値段も張りますが躊躇せず購入しています。老眼で手先も不器用になっていますが、拡大鏡や極細ピンセット、ゼリータイプの瞬間接着剤など、新しい道具で補えます。今後、医療と執筆の仕事がなくなったら、プラモ三昧ですごすつもりです。
病院へ行かないという選択
長生きをするために健康に気をつけていても、90歳とか100歳に近い超高齢になると、生きているのが苦しくなります。あちこちに不具合が出て、したいこともできず、食べたらむせ、味もわからず、目も耳もおぼつかなくなり、呼吸も苦しく、動悸息切れも激しく、トイレに行くのも大仕事で、多くの場合おむつが必要で、転べば簡単に骨折し、むせれば誤嚥性肺炎になり、寝たきりになれば床ずれに苦しみ、オシッコの管を入れられ、つらいことばかりになって、早くお迎えがこないかと心待ちにするようになります。世間には早死にする人もいるのに、お迎えを待つ人にかぎってなかなか死ねず、それまで健康増進に努めてきた自分を恨めしく思ったりします。
イヤなことばかり書きましたが、危機管理としては、それくらいの覚悟をしておいたほうがいいです。そうすると、超高齢になるまでに死が迫ってきても、それはそれで悪くないなと思えるでしょう。
老化が原因で起こる病気のほとんどは、医療では治せないものです。あれこれ検査をして、効いているのかいないのかわからない薬をのまされ、挙げ句の果てに、「これ以上、よくなりません」と言われるのが関の山です。
私の父は亡くなる1年前の86歳のときに、どすんと座って腰椎を圧迫骨折しましたが、私は病院には連れて行きませんでした。連れて行っても痛い思いをして診察を受け、X線写真を撮られ、「圧迫骨折ですね」と言われて、「安静と湿布でようすをみましょう」ということになるのがわかっていたからです。それなら家で安静と湿布をしているほうが、よっぽど楽で時間もお金もかかりません。
下手に病院に行ったりすると、見つけなくてもいい病気まで見つけられ、よけいな検査とよけいな治療で病院につなぎ止められ、重症化して入院などすると、次々新手の治療が繰り出されて、気づいたらチューブと機械だらけの悲惨な延命治療になっているということも稀ではありません。
しかし、多くの人は不安と心配で、何かがあれば病院に行くのが当然と思っているようです。以前、あるところで講演をしたあと、質疑応答の時間に、高齢の女性が質問に立ち、「わたしはチューブだらけの延命治療だけは受けたくないのですが、どうすればいいでしょう」と言いました。そこで私が「それならいい方法があります。病院に行かなければいいのです」と答えると、会場から笑い声があがりました。私はまじめに答えたつもりだったのに、会場のみなさんは冗談だと思ったようです。