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「田舎医師」1961年(有栖川有栖・選)

北村 意外な一作を選ばれましたね。

有栖川 世間的に特別評価が高いわけでなく、北村さんから見ても地味な作品かとは思いますが、傑作ですよ。

北村 これまた清張作品のひとつの系譜といえる“ルーツ探し”ですね。

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有栖川 清張先生は、お父さんが育った中国地方の山や島根と広島の県境あたりを、自分のルーツとして度々訪ねて小説に描いています。中でも「田舎医師」で一番感心するのは、これ、めちゃくちゃ本格ミステリーなんですよ!

北村 確かに仕掛けはあるけど……。

有栖川 間違いなく傑作です。父親の故郷に行ってみたら、この辺りでは医者がいまだに馬で往診するという。驚きはするでしょうけど、そんなの普通はエッセイ一本書いたら終わりじゃないですか。しかし松本清張は推理小説を作るんですよ。雪上の人や馬の足跡を巡る推論は実に論理的だし、村の人間関係と往診の順番にはチェスタトン風味もある。後半は伏線回収の嵐。もっと読まれるべき作品として、強く推します。

「上申書」1959年(北村薫・選)

北村 これは私自身がまだ初心な学生時代に読んで、官憲の取調べの恐怖が惻々と迫り、心に食い入っている短編です。

有栖川 恐怖一色でしたか?

北村 戦時中に妻殺しの疑いをかけられた男の聴取書が並ぶ形式ですが、取調べを重ねるごとに証言が二転三転する。権力に強制されて“真相”がコロコロ変わる様がとにかく恐ろしい。ここから『日本の黒い霧』の帝銀事件や松川事件につながっていくわけですが。

有栖川 権力が誤った時の恐ろしさについてはまったく同感です。ただ、私は恐怖と同時に引き攣った笑いも誘われて、例えばジョージ・オーウェルの『1984』のようなディストピア社会のブラックユーモアを感じたんです。もちろん清張先生には笑わせる意図はないのでしょうが、十数回分も調書を並べて執拗に事件をひっくり返すのを読んでいると「いくらなんでも、ここまで態度が変わるかいな」とアイロニーを感じてしまう。

北村 私なんか、締め上げられたら一発で転んじゃいますけどね(笑)。初読の恐怖は何十年経っても色褪せません。

松本清張

「天城越え」1959年(有栖川有栖・選)

北村 五〇年代末の清張先生がいかに充実していたかが分かりますね。

有栖川 映画も評判になりましたし、ファンの多い短編かと思います。特筆すべきは二点で、まずこれは“アンチ『伊豆の踊子』”小説である。『踊子』とは反対のコースで天城越えをしようとした少年が恐ろしい運命と遭遇する物語。なんとも巧みな反転で、暗い、黒光りする小説になっています。

北村 現代の読者は『伊豆の踊子』になじみが薄くなっているのが、残念ですね。「天城越え」発表当時は子どもでも知っていましたから。やはりここは『踊子』を知った上で読んでほしい。

有栖川 そしてもう一点、本格ミステリーとしては、犯人が分かった時に「あ、これ『●●●●』じゃないか」とアメリカの某古典本格が思い浮かぶ興奮。

北村 『●●●●』はもちろん、子どもの頃からモーリス・ルブラン『女王の首飾り』を愛読する有栖川さんが、この一作を選んだことに意味がありますね。

有栖川 印刷所経営者である主人公の少年時代の天城越えの回想がまずあり、次いで彼の元に持ち込まれた昔の捜査資料で三十数年前の殺人事件が綴られる。そして主人公を訪ねてきた老刑事との対話で終わる。いわば「私が犯人」という語り落としをしている小説なんですが、これ以上に自然な、語り落としによる記述者=犯人の作例ってないんじゃないかと思います。誰かに向けた告白でも手記でもないのに、少年時代のほんの短い時間に起きた出来事を主人公が一生引きずっているのが伝わってくる。読者を驚かせるとか、意外な犯人とかとは違う次元で推理小説が出来上がっています。