論旨がおかしく、ただ情報が羅列された記事…
石井 それは私たちをとりまく言語環境の問題もあると思います。一般のブログはもちろん、プロが書いているはずのウェブ記事にも、「何が言いたいのかよくわからない」「論旨がおかしい」「ただの情報の羅列」といった水準のものがありふれているからです。メジャーなポータルサイトの掲載記事、大手メディアが配信している記事ですら、そういうものが含まれているので、受け手もこれでいいんだという感覚になってしまう。
各社にしたら、一日に何本も出さないといけないウェブ記事を編集者が丁寧にやりとりしてブラッシュアップしたり、校閲を通すような時間もお金もないのでしょう。ライターのほうだって、単価の安い仕事にそこまで時間をかけられない。もっと言えば、読者のほうも、さらっと斜め読みで、記事を最後まで読み通さない人が非常に多い。
誤解をおそれずに言えば、この悪循環のなかで、雑な記事から苛烈なSNSの書き込みまで、日々低水準な日本語を大量にあびて現代人は生きています。
――言葉がトゲトゲしく、論理が飛躍した文章がウェブには溢れていますね。
石井 近年とくに気になるのが、SNSの反応をひろっただけの紹介記事が氾濫していることです。賛否両論併記しているつもりなのかも知れませんが、何を伝えたいのかわからないし、そもそも書いている人間がこれを伝えたいという意思を持っていない。警察や官邸が発表した情報を、書き手の視点や分析なしに、ただ羅列しているだけのウェブ記事も多く見られます。
本来は、絵だって音楽だって、およそすべての表現はその人自身の「伝えたいもの」があるから行う営みなはずです。その前提がなかったりあまりにも希薄だったりする文章の多さに、危機感を覚えます。
――ニュースでは、まずは事実関係を伝えることや、速報性に主眼をおいているという事情もありそうです。
情報の伝達と「表現」の違い
石井 その通りです。もちろん、そうした「情報」としての記事も必要ですし、否定するつもりはありません。ただし、それは単なる情報の伝達であって、文芸としての「表現」ではない。もし文章を書きたい人がプロを目指すなら、「独自の視点と構成力」というプラスαのスキルがどうしたって必要になってきます。これはノンフィクションという、事実の素材を扱う場合も同様です。むしろ事実を扱うからこそ、より必要とされるスキルと言ってもいい。
――どういうことでしょうか。
石井 現実の素材には必ずしも誰もが理解できる意味があるわけではありません。その素材を、説得力をもって「伝わる」文章にするには、必ず「意味の変化」を起こすことが必要なんです。「ノンフィクションの基本法則」は、突き詰めると〈事実→体験→意味の変化〉だと、私は考えています。
例えば公園の砂場に空き缶が捨てられているとします。これはただの汚いゴミであって特別な意味はありません。でもそこに、明日から長期入院する難病の子がやってきて、その空き缶を見つけて缶蹴りをしたらどうか? ただのゴミが入院前最後の大切な思い出になるわけです。
ひとつの事象があったとしたら、なにかしらの体験か視点によって、「意味の変化」を起こす――このストーリーによる意味の変化を構造的につくり出すのがノンフィクションを書くうえでの必須の技術です。