半世紀にわたって“輸出禁止”だった
先に紹介した機内アナウンスにあったとおり、コアラは哺乳類のうち子供を育児嚢(のう)と呼ばれる袋で育てる有袋類に属する。生息するのはオーストラリアの森林に限られ、ユーカリの木の葉しか食べず、水分もそこから摂取するので、水はめったに飲まない。その個体数は、20世紀前半までに毛皮を取るための乱獲や生息する森林の破壊により従来の半分にまで減ってしまい、オーストラリア政府は1933年以来、半世紀近くにわたり国外への輸出を禁止してきた。
しかし、アメリカでは飼育・繁殖で実績を出し、例外的に輸出が認められていたこともあり、コアラを呼ぼうという動きが日本でも起こる。東京の上野動物園は1971年、11年後の開園100周年に向けてコアラを誘致する計画を立て、ユーカリの育成を始めていた。計画自体は、翌1972年に同園が中国から日本に贈られたパンダの受け入れ先に急遽決まったこともあり頓挫するものの、このときの準備はその後、同じ都立の多摩動物公園がコアラを受け入れる下地となる。
コアラをめぐって日本各地が誘致競争
鹿児島市では1975年に「コアラを鹿児島に連れてくる会」という市民グループが発足し、誘致活動が始まる。名古屋市でも1980年にシドニー市と姉妹都市の提携を結ぶに際し、コアラ寄贈の話が持ち上がる。東京都も同様に、コアラ受け入れが具体化したのは、1984年にオーストラリアのニューサウスウェールズ州(シドニーはその州都)と友好都市関係を結ぶ過程においてであった。
この間、1980年9月にコアラ輸出が解禁された。これを受けて、上記の3都市に埼玉県・兵庫県・横浜市・大阪市も加わり、熾烈な誘致競争が繰り広げられる。この事態を収めるため、オーストラリア政府のコーエン内務・環境大臣が1984年4月の来日時に記者会見を行い、コアラはまず東京・名古屋・鹿児島の動物園へこの秋にもほぼ同時に送られるだろうと述べた。3都市の動物園はこのときには、オーストラリア側がコアラを提供する条件の一つにあげたコアラ舎の建設を進めており、ユーカリの育成にも数年前より取り組んでいた。