豊田喜一郎 差し出した手が油まみれだとご機嫌でしたね

原田 梅治 元豊田自動織機製作所専務
ビジネス 企業

 発明王・豊田佐吉(とよださきち)の長男、喜一郎(きいちろう)(1894―1952)は東京帝大工学部卒業後、父の興した豊田紡織に入社。大正15(1926)年に豊田自動織機製作所常務。欧米視察で自動車事業への進出を志し、昭和12(1937)年に内外の反対を押し切ってトヨタ自動車工業を設立、「世界のトヨタ」への第一歩を刻んだ。16年には社長に就任したが、経営危機の責任を取り辞任。社長復帰が内定していた27年、57歳で死去。原田梅治(はらだうめじ)氏(元豊田自動織機製作所専務)は部下として、自動車事業の構想を練っていた時期の喜一郎と間近に接していた。

 私が長野工業学校を卒業し、愛知県刈谷市の豊田自動織機に技術者として入社したのは昭和7年。同社が「自動車部」――のちのトヨタ自動車――を設置する前年のことです。

 入社してすぐ、本社工場での実習を命じられました。まずは現場の実際を体で覚えよ、というわけです。旋盤やミーリングなどの工作機械の扱い方をみっちり仕込まれ、一通りこなせるようになった頃、そう、入社して3カ月ほどたった時期でしょうか。当時常務だった喜一郎さん直轄のもと、社が開発中だった紡績機械や新型織機の、所要動力に関する研究調査にたずさわることになったのです。

豊田喜一郎

 私に与えられた机は事務所の2階、なんと喜一郎さんの部屋の中にあった。10畳くらいの広さの簡素な部屋。窓際に喜一郎さんのデスクが据えられ、私の机は応接セットをはさんだ反対側、ドアの脇に置かれていました。

 私は朝7時に出勤すると、すぐに工場に入って織機に取りつき、データを取っていく。油まみれになって部屋に戻るのが夜の6、7時頃。その時間には喜一郎さんはたいてい外に出られている。だから同じ部屋とはいっても、始終喜一郎さんと顔を突き合わせていたわけではありません。私はその日一日の調査結果をレポートにまとめ、喜一郎さんのデスクに置いて帰宅する。そういう日々が半年ほど続きました。

 私のレポートを、喜一郎さんは夜遅く戻ってきて、あるいは翌朝、目を通されていたようですね。そのつど私をデスクに呼んで、レポートについてのコメントをくださる。「ここの部分のデータが足りないんじゃないかね。調べてみたまえ」などと、その口調は非常にていねい、おだやかで、なおかつ生粋の技術者らしい簡潔なものでした。

洋食を食べたことがあるか

 喜一郎さんは当時の男性としては平均的な身の丈、165センチくらいで、がっしりした体格。そう、姿形は今の章一郎さん(豊田章一郎・トヨタ自動車名誉会長。喜一郎の長男)がそっくりです。いつもワイシャツにネクタイを締め、上にカーキ色の作業着を着ていらっしゃいました。そのまま工場にも入れるし、お客さまが来た時には上着に着替えればすぐお迎えできる、という服装です。

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source : 文藝春秋 2000年1月号

genre : ビジネス 企業