森繁久彌 パパ森繁の満州家族記

和久 昭子 森繁久彌の長女
エンタメ 芸能 歴史

早稲田大学を中退後、東宝劇団、古川ロッパ一座を経て、NHKのアナウンサー試験に合格。1939(昭和14)年に満州へ赴任した森繁久彌。長女の昭子(あきこ)さんが思い出を語る。

 正直言って、私自身が還暦ちかくなるまで、父と対話したことがほとんどないんです。なにしろ父は家をあけていることが多かったし、居るときはたいへん厳しかった。だから、父から戦争の話を、あらためて聞いた覚えはないんですね。

 私が生まれたのは昭和14年。まさに父が満州新京放送局に派遣されるときでした。ところが産み月を超えても一向に生まれてこない。父は出発を延期して、私の顔を見てからようやく旅立ったそうです。

 翌年、私と母と祖母が満州にわたり、あちらで弟二人が生まれ、敗戦まで新京で暮らしました。両親は当時としては不思議なことに、パパ、ママで通っていました。簞笥にミッキーマウスの絵を描いたり大きなぬいぐるみを作ってくれる両親でした。一方で母は古風に父を立てていて、「パパお帰りよ」と言われると、夜中でも子供たちは玄関にお出迎え。「遅かったね」などと言おうものなら、すぐ父の手がとんできました。

森繁久彌 ©文藝春秋

 満州では、父はあまり家にいないのに、なぜかお客さんは大勢いる。放送局の仲間もいれば、軍人さんたちも来て、防空壕にピストルを預けてご飯を食べていました。これは戦後に帰国してからも同じで、知らない人がお酒を飲んでいるから、誰かと思ったら、単に父が電車で隣り合わせて意気投合した人だったり。

ソ連の憲兵に連行される

 父は満州全土を録音機をかついで取材して歩き、関東軍の命令でつくった『黒竜氷原を往く』というルポは、国定教科書にも使われました。志ん生さんや圓生さんが、慰問で満州にこられた時は、いろいろお世話をしたり、父が司会をつとめたそうですが、よく知らないんです。子供には聞かせられないことをしていたのかもしれません(笑)。

 私が覚えているのは、山田耕筰先生。せっかくつくられた満州の唱歌を、父は「先生、あまり面白くないですね」と言ったとかで、かえって可愛がられて、帰国後もおつきあいがありました。

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source : 文藝春秋 2007年9月号

genre : エンタメ 芸能 歴史