楽屋の鏡台横に置いた懐中時計にふと視線を落とすと、針は開演1時間前をさしていました。たったあと1時間で、30年間想い続けた夢が叶う……。ずっと遠くにあった夢と現実の境目が溶け合っていくような、不思議な感覚でした。
歌舞伎座「四月大歌舞伎」で「春興鏡獅子」を勤めてから、1か月あまりが経ちます。僕と鏡獅子との出会いは、3歳の時。小津安二郎監督が撮影した、曾祖父の六代目尾上菊五郎の映像でした。鏡獅子は、小姓・弥生と獅子の精という対照的な二役をひとりで演じ分ける作品です。六代目が演じる弥生のたおやかな美しさと、獅子の雄々しく勢いある姿に心を奪われ、以来、鏡獅子は僕の生きる意味になりました。
2015年から続けている自主公演「研の會」の第一回の演目として選んだのも、この鏡獅子でした。でも当時は、自分がやりたいからやる舞台。一方、今回は求めていただいて立つ舞台。お客様も、僕を目当てに来た方ばかりではありません。全身全霊をかけて舞うという点に変わりはありませんが、やはりあの時とは緊張感も責任の重さも違う。歌舞伎座の初日は、視覚も聴覚も何も機能しない、まるで宇宙服無しで宇宙に投げ出されたような感覚でした。
終演を迎えて、いま自分はようやくスタートラインに立っているという感覚です。30年間、目指してきた方向は間違いではなかった。そう安堵したと同時に、これまで自分がどれほどの不安を抱えていたかにも気づかされました。

最近、映画「国宝」が公開されたことで歌舞伎界の“血と才能”が改めて注目されていますが、そんな特殊な世界の中で、僕は門閥の御曹司ではない。けれど、音羽屋の血筋には連なり、部屋子という立場でもない。いわば、“どっちつかず”の存在です。その僕が、歌舞伎界の輪の中に入っていくためには、ただひたすらに歌舞伎を愛し続けるしかなかった。でも、もしその方向が間違っていたらどうしようという不安が、常に心のどこかにあったのです。
実は、鏡獅子の初日公演前に見ていた懐中時計は六代目菊五郎の遺品で、子どもの頃に祖母から譲り受けたものでした。“どっちつかず”という感覚があるが故かは分かりませんが、憧れでもある曾祖父の遺品を集めるのは僕の趣味のようなもので、この懐中時計はずっと大切に仕舞っていたものでした。それを実家に戻った時に見つけて、ネジを巻いたら動き出した。曾祖父の時計が目の前に迫った夢の実現を知らせてくれたことは、僕の背中を少しだけ押してくれました。
ようやくスタートラインに立った僕は現在、歌舞伎座の舞台に立ちながら、今年の「研の會」の準備を進めています。「研の會」は、コロナ禍の2年間を除く毎年夏に開催し、今年で9回目をむかえます。今回の演目は「盲目の弟」と「弥生の花浅草祭」。「盲目の弟」は、六代目が昭和5年に初演した作品で、僕が兄・角蔵を、同期の中村種之助さんが弟・準吉を演じます。
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