航空機墜落事故による不慮の死から半世紀余り。向田邦子(むこうだくにこ)(1929―1981)の作品は、小説、エッセイ、テレビドラマと、今もファンを惹きつける。多くの向田作品を手がけた演出家の鴨下信一(かもしたしんいち)氏がその魅力を解剖する。
「向田さんは昭和の大人物だと思いませんか」「いまだに作品も人柄も影響が大きいんだから、たしかにそうでしょう」「そこのところを書いてください」――こういう時、たいてい3つぐらいのことがいきなり頭に浮ぶ。あとはそれを熟させればなんとか書ける。いつも三題噺のように書いているのかといわれそうだが、今回は勝手が違った。浮んで来たのが奇妙なことだったからだ。
最初は字で、「草莽(そうもう)」が浮んだ。なんでこんな言葉が浮んで来たのだろう。
「莽」はよく見ると、中に犬の字が入っているヘンな字で、草むらという意味らしい。犬が兎を追ってゴソゴソやっているのが草むらだから、と辞書のほうも妙な説明が書いてある。「草」は民草というくらいで、2つ併せて「民間の」となる。なんでこんな言葉を知っているのかといえば、幼少の時は戦時中で「草莽の勤皇(きんのう)の志士」といった形容が盛んに流行(はや)っていたのだ。しかし「草莽の作家」なんて聞いたことがない。

続けて、何だかグチャグチャわからないものが浮んで来た。向田さんの書いた字だ。彼女のことなら何だって思い出になるけれども、あの字はあまり思い出したくない。当人は「イヌの日に腹帯」と書いたつもりが「犬の目に眼帯」と読まれて怒っていたが、なに、本人が悪い。崩し方が我流で、いつも急(せ)かされて書くからゾンザイで、原稿は悪夢のようだった。ぜんぜん読めない。
3番目は手首に巻かれた白い包帯。これはすぐ思い出した。公開の座談会というのがあって向田さんと出た。何故か右手首に包帯をしていたが、いっこうに不自由らしくはない。終るとファンがサインを求めて押し寄せる。その時おもむろにこの包帯を見せて「ちょっと手首をくじいてしまいまして。ゴメンナサイネ」。愛想よくことわる。人がいなくなったところでくるくると外(はず)せば――何でもない。
サインで自分の名を下手くそに書くのが嫌なのである。見栄っぱりなのだ。それでこの小細工。中国の大人物、かの項羽(こうう)将軍は「書は以って自分の名が書ければそれでいい」と字を習わなかったそうだが、それにくらべてこれはずいぶん「小もの」ではないか。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2013年1月号

