西堀榮三郎 南極越冬を叶えた「技術」

西堀 岳夫 東京工芸大学名誉教授
ニュース 社会

第一次南極観測隊の副隊長を務め、南極観測事業の礎を築いた西堀榮三郎(にしぼりえいざぶろう)(1903―1989)。戦争の傷もまだ癒えぬ1957(昭和32)年、なぜ南極での越冬という困難なミッションを成功させることが出来たのか。長男で東京工芸大学名誉教授の西堀岳夫(たけお)氏が語る。

 父・榮三郎の肩書を一つ選べと言われれば、「技術者」です。科学者や研究者、探険家という側面もありましたが、父は「技術」という言葉に強い思い入れがあったようです。

 よく「科学技術」という言葉が使われますが、父はこれを嫌いました。科学とは、新しい知識を人類が得るための探求活動であり、技術とはそれを応用すること。科学には罪はないが、技術は使い方次第で功罪が生まれる。だから科学と技術を一緒に考えるべきではないし、自分は「技術」のほうで生きている人間なんだ――という自負があったのでしょう。

 父は幼い頃から物理や化学が好きで、語学も堪能だったため、高校生の時には来日したアインシュタイン博士を連れて京都や奈良を案内したこともありました。京都帝国大学理学部卒業後は講師として大学に留まり、1936年に東京電気(現・東芝)に入社。真空管の研究に従事します。戦争中、日本軍は父の発明した真空管「ソラ」を戦闘機や無線機に使っていたそうです。

西堀榮三郎 ©文藝春秋

 未知なる物への憧れと人一倍強い探究心を持ち、何事にも動じない父でした。ただその父が、たった一度だけ、平常心ではなかった姿は、今でも忘れられません。終戦を告げる玉音放送を聞いていた時のことです。あの時、ラジオの前で父は涙を流していました。もちろん自国が敗戦したことの悔しさはあるでしょう。しかし、それ以上の意味があったのだろうと思います。

 それは、自分の作った製品で挑んだ戦いに敗れたことの悲しみが、涙を流させたのだと思います。つまり、「技術者としての敗北」が、父には耐えられなかったのかもしれません。

 しかし、父の戦いはそこで終わりませんでした。次に目指すべき対象を捉えると、その実現に向けて全精力を注ぎ込み続けました。品質管理や原子力など様々な研究を行ないましたが、その中でも特に熱を入れていたのが南極でした。

有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。

記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!

初回登録は初月300円

月額プラン

初回登録は初月300円・1ヶ月更新

1,200円/月

初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。

年額プラン

10,800円一括払い・1年更新

900円/月

1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き

電子版+雑誌プラン

18,000円一括払い・1年更新

1,500円/月

※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き

有料会員になると…

日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!

  • 最新記事が発売前に読める
  • 編集長による記事解説ニュースレターを配信
  • 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
  • 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
  • 電子版オリジナル記事が読める
有料会員についてもっと詳しく見る

source : 文藝春秋 2017年4月号

genre : ニュース 社会