世界王座を6回防衛し、さらにはボクサーにとって下り坂の30代に入ってから、2度にわたりチャンピオンに返り咲いた輪島功一(わじまこういち)(1943―)。引退後の1987年、自らの名を冠したジムを開く。その門をたたいた作家の角田光代(かくたみつよ)氏(1967―)が見た姿とは。
今から8年前の33歳のとき、私は失恋をし、30を過ぎても人は失恋するという事実に打ちのめされ、今後失恋しても打撃を受けないための精神力を身につけようと思いたった。強い精神は強い肉体に宿るのであろうと単純に考え、当時の住まいから歩いていける場所にスポーツクラブがないかをさがした。歩いていける範囲でなくては続かないと思ったのである。スポーツクラブはなかったのだが、輪島功一スポーツジムがあった。藁にもすがる思いだった私は、スポーツクラブでもスポーツジムでもなんだっていいや、というような気持ちで入会した。だから、ここの会長が輪島功一氏であることは、あまり気に留めていなかった。
会長はあまりジムには姿を見せないんだろうなとなんとなく想像していたのだが、入会して2日目くらいに輪島会長に会った。会長はすたすたと私に近づいてきて「運動すれば、ぼーん(とボインのジェスチャー)、きゅっ(くびれたウエストのジェスチャー)、ぼーん(でか尻のジェスチャー)になれるからがんばれ」と言った。ぽかんとした。輪島功一という人のことは知っていたが、なんというかもっとこわい人だと思っていた。「ぼーん、きゅっ、ぼーん」などと言うとは思わなかった。
会長はほとんど毎日ジムに顔を出すと知ったのはもっとずっとあとのことで、この当時はジムに会長がいると毎回びっくりした。会長はたいていふざけている。

「ここに通っていれば叶姉妹も夢じゃない」とわざわざ言いにきたりする。柔軟体操をしているとぎゅうーっと背中に力を加えてきたりする。にこにこ笑って、へらへらしている。
毎回、練習生の靴を揃える
ジムに通いはじめて2年目くらいのとき、沢木耕太郎氏の『激しく倒れよ』が文藝春秋から刊行されて、氏のファンだった私は早速読んだのだが、そのなかに、ボクサー輪島功一のことを描いた一篇がある。驚いた。自分の通うジムの会長が、こんなにすごい人だとは思わなかったのである。もちろん、輪島功一という人が元世界チャンピオンであることは知識として知っているのだが、現役時代の彼の試合を私は見ていないので、どんなにすごいボクサーだったかまったく知らないのである。沢木氏の描き出したボクサーと、「ぼーん、きゅっ、ぼーん」の会長を頭のなかで重ね合わせ、そして私は輪島功一という人を、このときはじめて心の底から尊敬した。こんなに偉大なボクサーであったのに、会長はそれをひけらかすどころか、ずっとへらへらしているのだ。説教をすることもなく、上からものを言うようなこともない。本当にすごい人は、本当に強い人は、ちっとも威張る必要がないのだと私は会長に教わった。
会長は、ジムに到着するとまず、靴箱におさまった練習生たちの靴を、一足一足揃えて置きなおす。毎回だ。こういうことだって、大仰にやっているのではない。さりげなく静かにやっているので、会長がみんなの靴を揃えているなんて、知らない人は知らないまんまだろうと思う。
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source : 文藝春秋 2008年9月号

