父の足跡をたどって

古風堂々 第6回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース

 毎年何かしらの理由をつけて夫婦で外国に行く。5年に1度ほどアジアに行く以外はヨーロッパばかりだ。アフリカと中南米は治安を気にする私がいやがるし、アメリカは女房がいやがる。息子達の小さい頃、家族でニューヨークへ行ったことがあった。当地に住むアメリカ時代の女友達E嬢に家族を紹介しようと、私は連絡をとった。ホテルのロビーで家族とともに待っていると、玄関に入り私を見つけたE嬢は、うれしさの余り私にかけ寄ると、思い切り強く私を抱擁した。そこまでならよかったのだが、興奮の余り私にキスまでしたのだ(唇)。横で女房は憮然とし、息子達は口を開いて見上げていた。これでアメリカがなくなった。

 今夏はスイスだった。久し振りに父の墓参りをし、父が55年前に訪れたスイスの村々を、その時の旅行記『アルプスの谷 アルプスの村』(新潮文庫)を手に、たどってみることにしたのだ。父が突然に逝った2年後、母はユングフラウ鉄道のクライネ・シャイデック駅近くの丘に、好きだったアイガーを父が毎日見られるようにと墓碑を作った。いくつかの遺品が埋められた岩に、「アルプスを愛した日本の作家 新田次郎 ここに眠るJapanese novelist JIRO NITTA(1912-1980) sleeps here」と刻んだ銅板がはめこんである。父の死後なかなか立ち直れなかった母は、父に会えるかのごとく毎夏いそいそとここを訪ねた。

 私達はルツェルンで開催中の音楽祭でベルリンフィルを聴いてから、海抜1,800米の村ミューレンに向かった。電車、アプト式電車、バス、ロープウェーと乗り換えた。車窓からは、まず鮮緑の牧草地とその上部に深緑の森林が、そして次第に窓の上からはみ出すように、アイガー、メンヒ、ユングフラウの三名峰が見えてくる。三名峰に対峙する、切り立った崖の上の狭小の地に開けた村がミューレンである。麓からの道はないから車やバスは入れないし、大きなホテルも建たない。絶景なのに隠れ家のままである。

 山小屋風ホテルの部屋のテラスから見上げる、三名峰の威容は圧倒的だった。高さ4,000米の荒々しい岩盤が、石斧のごとく蒼天に突き刺さっている。コーヒーでも飲みながら、父の夢見た風景を心ゆくまで眺めようと思っていたら、旅に出ると決して休息を許さない女房が「さあ、天気の崩れないうちに歩くわよ」と言った。山仕度を整え2時間余りのトレッキングとなった。

 夕食前の散歩中、小ぢんまりとした木造教会の芝生のベンチに腰かけ、暮れなずむ山々を眺めている50代半ばと思われる男性と、母親であろうか品のよい婦人に目が止まった。絵のような光景だったので、思わず話しかけた。「よくこちらに来られるのですか」「毎夏母と来ています」「この景色ですからね」。母親が「初めて来た50年前はアイガーもユングフラウも全山真白でしたが、最近は温暖化のせいでしょうか、雪がすっかり後退しました」と言った。「どれ位滞在ですか」と聞き返すと母親が「2週間(fortnight)」と言った。「英国の方ですね」「どうして分かりました」「英語です」。2人はうれしそうにうなずいた。美しい英語やフォートナイトなどという単語は、英国中上流階級だけのものだからである。男性はバーミンガム近くの町の牧師だった。「あなた方はどうしてここに」「作家だった父は55年前、憧れのアルプスを見ようと3カ月間スイスを回りました。私達はその時の父の足跡をたどるつもりです」。男性は「追憶の旅なのですね」と言うと何を思ったのか一瞬目をうるませ、私達から目を離すと正面の山々を無言のまま見上げた。しばらくして口を開いた。「お子さんは」「碌でなし息子達が3人います」。男性は一笑してから急に真面目な顔となり、「あなたの言う碌でなし息子達が、55年後にあなた方の足跡を訪ねここに来ることでしょうね」と言った。話が弾み、辺りがすっかり薄暗くなったのでいとまを告げると、彼はベンチからすっと立ち上がりこちらに歩み寄ると、「あなた方と素晴らしいお話ができました。本当にありがとう」と言って私達に堅い握手をした。教会の細道を下りながら見上げると、アイガーの西壁が夕陽にほの赤く輝いていた。

 翌朝、父の墓碑を訪れようと電車、ケーブル、ロープウェーと乗り継ぎメンリッヒェンに出た。ここから眼前にユングフラウ、メンヒ、アイガーを眺めつつ、海抜2,061米のクライネ・シャイデックに向かう。草を食む牛のカウベルが周囲から「からんころん」と響いてくる。これほど心地よいトレッキングはこの世にあるまいと思いながら2時間弱で目的地に着いた。

 駅広場から墓碑へは、スイス政府観光局の好意で木製階段と手すりが作られている。私達家族が初めてここを訪れたのは英国ケンブリッジにいた1988年の夏であった。母が父つきの編集者達と訪れるのに合流したのだ。墓碑の前で手を合わせていると、当時が思い出された。皆で黙祷をしてから、編集者T氏の吹くハーモニカに合わせ、父の好きだった「荒城の月」を合唱した。急逝して8年たっていたが、誰もが喪失感を胸に抱いたままだった。母がこらえ切れぬように途中から両手を銅板につき、ついには額を押し当てた。女房が鼻をすすりながら小刻みに震える母の背に掌をあててさすっていた。あれから31年がたった。今や父ばかりか母も他界した。悠久の自然に抱かれながら、人間だけが目まぐるしく流転する。いずれ私達も。牧師の言葉が思い出された。私は「さあ、グリンデルバルトまで歩くぞ、4時間だ」と大声で言った。この日の歩数計は20キロ、3万5,000歩を示した。

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source : 文藝春秋 2019年11月号

genre : ニュース