大相撲からプロレスへ転向、空手チョップでアメリカ人レスラーをマットに沈める力道山(りきどうざん)(1924―1963)に、敗戦でうちひしがれた日本人は大喝采を送った。その実像を付き人として見てきた元プロレスラーのアントニオ猪木(いのき)氏(1943―2022)が振り返る。
力道山が日本中に大ブームを巻き起こしている最中の1956年、私たち一家はブラジルへ移住することになりました。プロレスラーの夢はあったものの、地球の裏側の農園で働く毎日、道はまったく見えませんでした。

そんなとき、私たちが落花生を出荷しに行くマリリアという街に力道山が巡業にやってくるという話が伝わってきました。しかも、兄貴が招聘委員会に関わることになり、「紹介してやる」と約束してくれた。胸を躍らせながら試合を見に行きましたよ。でも、試合後、力道山に会うことはできなかった。トラックの荷台に乗って農園に帰るとき、星空を仰ぎ見ながら、夢が急速に萎(しぼ)んでいくのを感じました。
ところが翌年、力道山が再びブラジルにやって来た。その頃、私はサンパウロに出て、青果市場で働くようになっていました。そこの理事長が招聘に関わっていて、「リキさんが砲丸投げをやっている日系人を探している」ということで、すぐにホテルへ連れて行かれた。当時、砲丸投げの選手だった私は大会で優勝し、新聞にも載っていたのです。
初めて会った力道山師匠の威圧感、オーラは凄まじかった。そして、まさに「100万ドルの笑顔」の男っぷり。私が圧倒されていると、「よし、日本に行くぞ」と、その場で弟子入りが決まり、ほとんど着の身着のままで、日本に向かったのです。
日本に着いてからは、東京・池上にあるプール付きの大豪邸に住み込み、付き人をしながら練習に励みました。師匠からは名前で呼ばれたことはなく、いつも「おい、アゴ!」です(苦笑)。あとはただぶん殴られるだけ。巡業中、見送りの人が大勢いる旅館の玄関で靴を履かせそこねて、靴べらで頭をパチーンとはたかれたこともあります。思わず涙がこぼれました。
そうやって付き人をしているうちに、神様のように絶対的な存在だった師匠の人間的な部分も見えてきます。酒を飲まずにはいられないし、飲めば暴れる。酒乱に加え、不眠症で睡眠薬を飲んでいたから、朝はいつもぼんやりしていました。亡くなる直前の巡業あたりからは反発心を感じ、師匠のもとを離れてアメリカへ渡ろうかと考えていたくらいです。もちろん、口には出しません。出したら半殺しにされますから。
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source : 文藝春秋 2013年1月号

