にごり水もまた美し

第17回

山田 詠美 作家
エンタメ 社会

 この号が出る頃には、少し前の話になってしまうが、年末年始は夫婦で都心のホテルに滞在し、江戸下町散歩をテーマに楽しんだ。日頃、武蔵野界隈をうろうろするばかりで、しかもひどい方向音痴の私は、知らない街を歩いているとすぐに迷子になってしまうのだが、夫が軌道修正してくれれば大丈夫。え? スマホ? いらないいらない。そんなのに頼っていたら散歩にならないよ。あえて、時間を無駄使いする楽しみを知らない人が多過ぎる昨今だが、私の人生のテーマは「無為」。あ、これって読書と似ているね。仏教とは何の関係もない「無為無策」「無為徒食」の方の無為。この年齢(とし)になると「無為」が後の人生の宝物を生み出すこともあると知っている。なーんて、怠け者の自己弁護ですが。

 さて、下町散歩である。初めて歩いた柳橋から両国橋にかけての川沿いの風情はすごく好みだった。特に神田川が隅田川に合流するあたり。嵐の前の静けさのような水の澱み方。氾濫したら、どれほど獰猛な正体を現わすのかと想像すると足がすくむ。

 私は元々、速さのある澄んだ川より(まあ、これはこれで美しいと思うが)、どよんと濁った水が溜る場所に惹き付けられる性質(たち)。沼とか、溜池とか、川と川の合流地点とか。

 アメリカの湿地帯も好きだった。前の結婚の時、ニューヨークから南部のサウス・キャロライナに移り住んだ義理の両親を訪ねるたびに、私好みの水辺を発見して喜んだものだ。しかし、ある時、ひとりで散策して帰って来たら、義母にひどく𠮟られた。殺されたらどうするの!? と。映画「羊たちの沈黙」のレクター博士みたいな人間はそこら中にいるんだから! と私を震え上がらせた。前夫に話したら、彼は別な理由から激怒した。ワニに食われたら、どうするんだ! と。ほんとだ。今、思うと何という無謀。でも、好きなんだよ、南部のじめじめした湿地帯……という訳で、探険する代わりに『PAY DAY!!!』と題した南部が舞台の長編を書いた。私の好きな種類の水の匂いを嗅ぎながらのインナートリップだった。

司馬遼太郎の笑顔

 金沢市主催の泉鏡花文学賞の選考委員を務めているので、年に一回、授賞式に出席するため、そちらを訪れる。金沢は全国屈指の「用水のまち」と呼ばれているそうな。その数五十五本で、なんと総延長は一五〇キロメートルだとか。街のあちこちで、せせらぎが耳に届き心地良い。インバウンドで混み合う観光名所を離れて、人気(ひとけ)のない用水路に沿って歩くのもまた一興。

 私が好きなのは、二本の水路が合流して三本の川に見える「旧古道木揚場」。藩政時代、木材が運搬され陸揚げされていた。今現在、その水際には、スダジイという大木が葉を繁らせている。歴史の生き証人として保存樹に指定されているそうだ。

 あー、これこれ、こういう沈黙したかのような水が大好きなのよー、と嬉しくなり写真を撮ったのだったが、どのショットにもゴミステーションの分別用ボックスとカラス避(よ)けのカラフルなネットが写り込んでいるのであった。はー、大事にされてないんだなー、生き証人な用水路。仕様がないので諦めて、収集前のゴミと並んで夫に写真を撮ってもらった。大丈夫! ゴミに負けてないよっ! とスダジイが励ましてくれた……気がした。

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source : 文藝春秋 2026年3月号

genre : エンタメ 社会