ラファエルの羅針

新連載 第1回

柚月 裕子 作家

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エンタメ 読書

第一章

 タクシーの後部座席に座る三上優人(みかみゆうと)は、窓から外を眺めながら運転手に話しかけた。

「少し、窓を開けてもいいですか」

 フロントガラスはデフロスターが利いて、視界がはっきりしている。しかし、後部座席の窓ガラスはその機能がないため、息で曇っていた。

「暑いですか。ヒーター下げますよ」

 年輩の運転手が、バックミラー越しに三上に訊いてくる。

「いえ、ちょっと外が見たいので」

 三上がそう答えると運転手は、はあ、と諦めとも呆れともとれる声を出し、視線を前に戻した。地元の者からすれば、窓を開けても寒いだけで面白いものなどなにもないのに、と思うのだろう。だが三上は、そのなにもない景色が見たかった。

 ドアについている開閉ボタンを押し、窓を下げる。雪交じりの凍てつく風が、車中に勢いよく入り込んできた。

 強い風に髪をなぶられながら、周囲に目を凝らす。車のライトに照らされたガードレールが見えるだけで、あとは暗闇が広がっている。家の灯りひとつない。

 この一帯はなんなのだろう、と考えていると、波の音が聞こえてきた。浜辺に打ち寄せては引く穏やかなものではない。岩にぶつかり砕けるような荒々しい音だ。

「この先は、海ですか」

 ガードレールの向こうを見ながら訊ねると、運転手は答える前に三上に頼んだ。

「すみませんが、窓、閉めてもらえるかい」

 三上が窓を閉めると、運転手は大げさなほど肩を竦めた。

「私、病み上がりなんだわ。しつこい風邪がやっと治ったばかりでしてね。あまり身体を冷やしたくないんです。それで、なんですって?」

 強い風の音で、声が聞こえなかったらしい。

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source : 文藝春秋 2026年5月号

genre : エンタメ 読書