実体験が乏しい人の文章は説得力をもちえない
若い頃に5年ほど新聞社で記者をしていたことがあるが、そのきっかけのひとつとなったのが松本清張の『影の地帯』だった。この作品には木南というベテラン記者が登場する。警察まわりと現場取材で殺人事件の真相に迫るものの、それが原因で犯人グループに目をつけられて消されてしまう昔気質の記者だ。高校生のときから清張作品に親しんでいた私はこのブンヤ魂の結晶のような人物に憧れて記者職への興味をもった。こんな足で稼ぐタイプの記者は私の時代にはほぼ絶滅危惧種だったけれど、ともかくひとりの若者の将来選択に影響をあたえるぐらい清張作品には個性的で魅力的な人物が数多く登場するのである。
その秘密はデビュー前の苦労時代にあったようだ。父が米相場に手を出して身を持ちくずし、ナメクジが這うような貧しい家庭で育った清張は、手に職をもてという母のまっとうな助言をうけて印刷工として職人の道を歩み始める。小さな印刷所から始まり、いくつかを転々としたのち、やがて大阪朝日新聞九州支社で働くようになるが、それとても最初はフリーの下請け業者としての関係で社員ではなかった。つまり徹底的な叩き上げであり、小説家になったのは何と41歳になってからだ。
貧しいだけではなく、ひょんなことからアカ狩りで検挙されて拷問をうけたり、戦後は印刷工としての仕事がなく行商の旅に出たり、新聞社の正社員になってからも学歴差別がひどかったらしい。その間、詐欺師のような人物から、学歴を気にせず人物本位でつきあってくれる温情豊かな人まで様々な人物と出会った。その人物観察の成果が、のちに執筆することになる大量の作品群の深みとリーダビリティを生み出しているのはまちがいない。

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