作家の中上健次(なかがみけんじ)(1946―1992)は高校卒業後に上京し、羽田空港の貨物積替え作業などをしながら詩や小説を執筆、昭和51(1976)年、『岬』で芥川賞を受賞した。自身の複雑な血族関係や故郷・紀州熊野に材をとった諸作品は、海外でも高い評価を受ける。平成4年、がんを告知され熊野に帰り、8月12日、46歳の若さで逝った。長女で作家の紀(のり)さんが初めて父について綴った。
今でも時々、父の夢を見ることがある。夢の中の父は、いつも嬉しそうに笑っている。まるで離れて暮らしていた者が久しぶりに会ったかのように。
夢で父に会っているとき、何故か私は父がそこにいるのがあたりまえのように振るまっている。それほど、父のいない現実が信じられないのかもしれない。それとも、父が消えてしまうことを恐れて、叫びだしたいほどの感情を無理やり抑えているだけなのかもしれない。
21歳のとき、父が亡くなり、私の世界が変わった。
夏だった。蝉の声が、じりじりと上がる一方の気温に急かされるように、街いっぱいに広がり始めていた朝だった。しかし午後になると雨が降った。私は父の実家の遺体が運び込まれた仏壇のある部屋でこの雨の音を聞きながら、お通夜の準備のために忙しく出入りする人たちを見ていた。私だけが、遠いところに居るような気がした。
私は長女である。2歳下には妹、そして8歳下に弟がいる。父は妹や弟のことは、ただ可愛がり、甘やかしていたように思う。しかし私には何かにつけて厳しかった。初めての子ということもあり、自分の子はこうあってほしいという願望も人一倍強かったに違いない。行儀や言葉使いまで、私がもっともがみがみと言われた。だから、父に娘らしく無邪気に甘えた記憶はほとんど無い。照れもあったが、それよりも、父は私にとって甘える対象ではなく、空のようにあり、海のようにある存在だった。見えなくても、いつも必ず側にあるもの、私の帰るべきところ。

私が15歳のとき、日本の今の学校教育のありかたに不安を感じていた父は、私をカリフォルニアにある古い修道院が経営するカソリックの女子高校に留学させた。父も私もカソリックではなかったが、宗教的なそこでモラルなどを学び、悪いことは悪いと言える人間に育ってほしいとの考えだったと思う。その学校では、最上級生になると、カイロスと呼ばれる合宿がおこなわれる。山の上にある施設で一人一人がカーテンで仕切られた個室を与えられ、4日間そこで自分を見つめるのである。カイロスの最後に、生徒全員に親からの手紙が渡される。この手紙は、学校側が前々から親にカイロスのために書くようにと頼んであったものである。私に渡されたのは、父からの初めての長い手紙だった。
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source : 文藝春秋 1998年12月号

