昭和が終わる年の1月に第100回芥川賞を受賞した。すると、すぐに映画化の話が持ち込まれた。自作が映画になるなんて夢のようだな、と素直に喜んだ。大手映画会社のプロデューサーや脚本家と信州の貧相な病院住宅で会い、妻の手料理と地酒でもてなし、主演女優はだれがいいか、などと盛り上がった。その後、脚本は完成したが、撮影開始の話はいくら待っても来ず、やがてこちらも地方勤務医の医業に加えてプロとしての小説書きの無理がたたり、心身絶不調の状態に陥った。
この一件があったゆえ、以降は自著の映画化の話には興味を失った。というより、パニック障害、うつ病と診断され、肺がん診療の第一線から脱落し、健康診断部門でかろうじて生きのびている身には小説を書くことも読むこともできない期間が数年続いた。
やがて、いくらか元気になり、もう一度生きなおすために過去を再構築するべく小説を書いてみたくなった。生まれ育った群馬の山村生活をおとぎ話風に仕立てた『阿弥陀堂だより』(映画化)、東京の進学校から都落ちして北国の新設医学部に入った自身の体験をわざとユーモラスに描いた『医学生』。この2作の評判がわりとよかったので、今度は本腰を入れ、夜間の呼び出しに応じて患者さんの最期を看取り、そのまま外来診療に入って治療や診断に精を出す、がん診療最前線にいる勤務医と、楽に死なせて欲しいと訴える患者さんとの交流を中心に、安楽死と尊厳死の違いについて真剣に悩み、患者さん家族との想いの違いなどもあって、次第に疲弊してゆく医師を描く小説を書いた。
医者のくせに小説を書き始めた原点は、当時のいわゆる医者物小説のなかに、朝、狭い住宅で泣きわめく子供たちに囲まれて納豆飯をかき込み長時間の手術を執刀したり、深夜の医局でカップ麺にお湯を注いだところで患者の急変を知らされ、食べ損ねて朝を迎える現場の医師たちの生活をリアルに描いたものが皆無だったからだ。美人の看護師との恋愛もない。スーパードクターもいない。
ならばこの身が書いてやろうと思った、その初心にきちんともどるため、『山中静夫氏の尊厳死』は下書きから清書まですべて万年筆で原稿用紙に書いた。その万年筆は、昭和56年に文學界新人賞を受賞したとき深沢七郎さんからいただいたものだった。執筆にはすでにワープロを導入していたのだが、あくまでも手書きにこだわった。
しかし、『山中静夫氏の尊厳死』は売れなかった。文庫になってもすぐに絶版。だから、この作品の映画化の話があっても、まあ、好きなようにしてください、といった態度で、脚本にも目を通さず、もう40年以上住んでいる佐久市でおこなわれたロケ現場に顔を出すこともなかった。
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source : 文藝春秋 2020年2月号