真の登山に宿る自由と美
登山記を読んで心がざわつくのは、死の瀬戸際まで行ってもどってくる彼らの姿に人間の狂気をみるからであり、ひるがえって、そこまで命を果敢に処断できなかった自分を鑑み、虚無を感じるからでもあろう。
ヴォイテク・クルティカはそうした死の瀬戸際に何度も近づき、生還した類まれな登山家の1人である。
今、狂気と書いたが、もちろん登山家は狂っているわけではない。極限の状況で命を冷静にコントロールしなければならないわけだから、むしろ理性的であり、落ち着きはらっている人のほうが多い。本書を読むかぎりでは、クルティカもそうした人物に見受けられる。やっていることは狂気同然なのだが、狂気と同居した冷徹な態度物腰に、美が垣間見える。登山家というより音楽家や画家のよう、だからこそ死の瀬戸際にたった彼の言葉には恐怖をゆさぶる含蓄がある。
書名がしめすように、これは登山の本であるが芸術の本でもあり、そして自由の本でもある。
真の登山とは自由を希求する身体的芸術表現だ。クルティカがやったことはヒマラヤの7000、8000メートル峰の極端に難しい岩壁を、人間にゆるされた体力と技術の限界を駆使して登攀し、生の臨界点の先端におのれをおしあげることだ。ではそこで何を実現したのかというと、それは登頂という成功や達成ではなく、むしろ自由な自分、つまり自分以外の他の何物によっても侵されていない、かぎりなく自分という要素で満たされた、自分だ。自由とは自律的に存在できることである。死の間際で生に集中する一瞬一瞬の煌(きら)めきのなかに、登山家は他では絶対に経験することのできない自由を知る。
と同時に、クルティカの登山は美しい。何かが美しくあるためには、そこに真理が宿されていなければならない。ということは彼の登山行為のなかに、山という存在、人間という存在の本質が表現されているということであろう。
ヒマラヤの山には、すべてを凍りつかせるほど完全で永遠不動の美がある。だから山は神でもある。本書で感じるのは、人間は山に登ることで神に近づこうとしているのではないか、ということだ。人間は不完全な存在なので神にはなれない。だから登山家はしばしば死ぬわけだが、この完全な造形物として超然と屹立する山と、完全なものに近づこうとする不完全な人間の調和のなかに、ある種の真理のようなものが映し出されているように思える。
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source : 文藝春秋 2020年2月号