「最後の将棋差し」と言われた棋界の異端児・升田幸三(ますだこうぞう)(1918―1991)。豪放磊落で、弟弟子である大山康晴名人と戦後の二大巨匠時代を築いた、第四代名人の家庭での顔を長男の晋造氏が語った。
子供のころ残っている父の印象としては、父が家に早く帰ってきたとき、肩車してもらい、お菓子を買いに行った姿です。初めての子だったので可愛がってくれたのでしょう。僕が4歳のとき、三輪車に乗っていて車とぶつかり額から血を流した。友達が「シンちゃんがケガした~」と家へ報せたら、父が一キロの道を、裸足で走ってきたことがありました。これは明確に憶えています。
ふだんは恐い父で、口応えや言い訳などしたら、火に油を注ぐような結果になります。大人になるまでは、まともに顔を見られませんでした。
あるとき親戚の女の児が遊びにきて、壁に落書をした。母が僕に「あんた描いたのか」と聞くから、「いや、〇〇ちゃんがやった」と言った。そしたら隣の部屋に居た親父が、すっ飛んできて「男のくせに言い訳するな」と、いきなり叩きつけられ、歯が折れた。
仮にその女の児がやったにしても、自分より幼い児を庇(かば)ってやるのが男じゃないかと言いたかったんでしょうね。正義感が強く武士道精神みたいなものを持っている人でしたから。剣術が好きで五段を持っていましたが、あるときは、僕が口応えしたら怒って日本刀をギラリと抜いた。僕は恐くて裸足で百メートルくらい逃げました。

父と母の関係では一方的に父が叱る。母は絶対服従でした。子供もそうです。夜、父が帰ってくると遠くから下駄の音がする。そうすると、母は酒の肴を造りにかかる。ぼくは弟と門を開け、玄関で並んで「お帰りなさ~い」をする。家に入れば、僕がビールの栓を抜いてお酌するし、弟はテレビをつけて「これでよろしいでしょうか?」とお伺いする。父に対しては、すべて敬語でした。
ともかく、父を怒らせないよう、不快感を感じさせないよう、家族みんなが気を遣っていました。たとえば父が居間でテレビを観ていて、静かになったとします。すると僕らはそおっと襖を開け、眠っていたらふとんを掛け、またそおっと部屋を出て行ったり、台所の電話を外し、奥の間へ移動させたり……。対局日が近くなると、一週間前から家中が父を気遣って、みんな静かにしていました。
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source : 文藝春秋 1998年2月号

