森勝彦「不管地の地政学」

文春BOOK倶楽部

片山 杜秀 評論家
エンタメ 読書

魔都性に憧れる名著

『有楽町0番地』。木下惠介の愛弟子、川頭義郎が監督した1958年の諷刺喜劇映画である。

 東京の真ん中に隣り合った2つの架空の区がある。旧江戸城の堀が両区の境界線。そこを埋め、高架の自動車専用無料道路を作ることになる。運営管理費は、高架道路の下の地上部分にテナントを入れ、その賃貸料で賄う計画だ。都心の一等地で商売には最高の場所。東京新名所になる。きっと繁盛する。税収も見込める。

 2つの区とも新地を自分の縄張りに入れたい。番地を別々につけようとし、互いに正統性を主張して譲らず、大騒動が巻き起こる。

 この映画は実話に基づく。1958年開業の東京高速道路の下のアーケード街を、千代田区有楽町と中央区銀座のどちらに編入するかという話である。実はそれから約60年経っても正式な決着はついていない。0番地や番外地とでも呼ぶしかない。しかし、だからといって現実の社会的空間に目だった歪みが生じるわけではない。千代田区も中央区も同じ日本の東京都の内なのだ。警察も警視庁管内という意味で一元化している。では、もしも、ひとつの都市内で境界線未詳の空間の管轄権を争う区なり何なりが、それぞれ別の警察や法律を持っていたらどうなるか。そんな土地が近代の中国にたくさんあった。不管地と呼ばれた。

 たとえば上海である。英米仏や日本が上海の一画に租界を、個別ないし共同で設ける。警察権や徴税権を中国から取り上げる。中国の統治する地区と租界が入り組む。しかも諸外国は、租界の外にも、施設や道路を建設し、その周辺を実効支配しようとする。

 かくして上海のいたるところに無警察的空間が増殖してゆく。どこの警察がどこまで入っていいかよく分からない。そこが悪場所になる。賭博場や阿片窟や秘密組織のアジトが集中し、危険人物が潜伏し、テロや犯罪が頻発する。近代の上海は魔都と呼ばれた。魔都性が単にメガロポリス性や多国籍性や迷宮性に由来するならパリもニューヨークも東京も魔都でなければならない。が、そうではないだろう。警察権力が強固に一元化していれば魔都は発生しない。魔都とはひとえに租界が入り混じり、誰がどこを支配しているか、分かりにくくなることで発生する。

 本書は不管地学を切り開く名著だ。学術論文集なのだが、かなり面白い歴史小説よりも面白い。扱う対象も、上海にとどまらない。天津や長春、香港の魔窟の九龍寨城、さらに中国の不管地研究の戦後日本への応用編として、筆は横浜中華街にまで及ぶ。

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source : 文藝春秋 2020年2月号

genre : エンタメ 読書