斎藤隆夫 名演説の裏にあった猛練習

村瀬 信一 元文科省教科書調査官

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 昭和15年、泥沼化した日中戦争への方針を政府に質す「反軍演説」をして、衆議院議員を除名、演説も議事録から削除された斎藤隆夫(1870〜1949)の実像を日本近代政治史が専門の村瀬信一氏が綴る。

遺言状を7通も書いたという斎藤隆夫(出典:国立国会図書館)

 斎藤は、兵庫県出石郡室埴村字中村(現在の豊岡市出石町の南部)に6人兄弟の末っ子として生まれた。生家は村の中で3番目の身代という小地主であったが、末っ子の彼の将来は他家への養子ぐらいが相場であったろう。農作業を嫌い、何とか別の道で身を立てたかった彼は学問への強い思いを抱くが、田舎で教育もままならず、それが16歳の時の家出につながる。京都まで出て結局郷里に戻ったが、数え年20歳の年に「人力車や馬車や東海道の汽車も切れ切れに通じていた」(斎藤『回顧七十年』、以下同)道を歩いて上京を果たす。そこから歩んだのは法律家への道であった。

 明治24年に斎藤は東京専門学校(早稲田大学の前身)行政科に入学、首席で卒業し翌28年に弁護士試験に合格した。神田小川町に事務所を構えたものの「私立学校出身者が弁護士を開業してもなかなか金は儲からない」し「私立学校卒業だけでは学問も足らない」と考え、渡米してイェール大学に入る。

 ところが、肋膜炎にかかり2年で7回の手術を受け(4回目以降は日本で受けた。手術のたびに書いた遺言状が7通になったという)やっと回復した。この留学失敗が転機だったのは、その顛末を綴った『人生之蹉跌 洋行之奇禍』(明治40年、渓南書院)なる書物を斎藤が出版していることからわかる。

 同書の自序の、「病と称する悪戯者」は自分を「七たび殺して七たび生かし、遂には拙き此書を公にして恥を天下に曝さしむるに至れり」という自虐的な調子に新規まき直しの意志を感じとれる。それがなぜ政治なのか、彼は特に述べていないが、明治45年の総選挙で郷里の兵庫県から初当選している(定数11の郡部大選挙区で最下位当選だった)。

 政治家として彼が専ら力を注いだのは議会での演説である。政治経験がなく親分も仲間もいない彼にとって、演説は存在を主張する唯一の手段だったが、それは期せずして時代の要請と合致していた。

 初当選の翌年、大正2年に大正政変が起きている。陸軍の2個師団増設要求を第二次西園寺公望内閣が拒否し総辞職。後継首班が陸軍の大御所にして元老の山県有朋の直系と見なされた桂太郎だったことに民衆が憤激し(日露戦争時の増税が継続していたことが背景にあった)、議事堂を包囲したため、桂首相は組閣2ヶ月足らずで退陣した。

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source : 文藝春秋 2026年11月号

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