2008年以降の経済危機で手薄になった医療をコロナが直撃。スペインの「今」は日本の近未来か、それとも――。現地在住のジャーナリストがレポートする。
宮下氏
「ウイルス戦争」が始まった
スペインで非常事態宣言が発令されてから、6週間あまりが過ぎた。都市は封鎖(ロックダウン)され、経済活動も停止し、街中から車も人も消え去った。ここまで静寂なスペインを見るのは初めてだった。
まるで伝染病映画を観ているようだが、映画でも夢でもない。現実の世界に私がいる――そう認識することが難しかった。
4月24日現在、新型コロナウイルス(以下、コロナ)の感染者は、世界では米国に次ぐ21万9764人、死者は米国とイタリアの次に多い2万2524人。病院は崩壊し、棺が溢れ出し、人々の泣き崩れる姿が散見された。
目に見えない「ウイルス戦争」が、いつしか世界で始まっていた。
スペインで感染者第1号が発見されたのは、1月31日。スペイン領カナリア諸島のラ・ゴメラ島で、ドイツからの観光客だった。初の死者が出たのは2月13日で、南部バレンシア在住者だった。それから1カ月間で、イタリア帰りのスペイン人が次々と感染していった。
2月中旬、私は米テキサス州で取材活動をしていた。米大統領選挙の予備選挙に向け、ヒューストンもオースティンも賑わっていた。コロナのニュースは、テレビやラジオでも、ほぼ流れてこなかった。米国では、累計患者2200万人、死者1万2000人を出したインフルエンザのほうがなおも脅威だったのだ。
私は唯一、マイアミの空港で、マスクをつけたアジア人旅行者団体を目にした。しかし、それもインフルエンザ対策だったのか、コロナ対策だったのか、よく分からない。どちらの感染症であっても、特に気にならなかった。
3月上旬、私はスペイン各地で「密集・密接・密閉」(3密)の中で取材を続けていた。コロナ感染者数がイタリアで急速に増加していることは知っていた。現地の仕事仲間は「単なる風邪」くらいの認識しか持っていなかった。
しかし、ここからが早かった。1カ月も経たぬ間に、コロナが1万人を超すスペイン国民の命を奪うとは、誰が予測できただろうか……。
実は、3月16日、私はもう一度、テキサス州に飛ぶ予定だった。ところが、出発4日前の夜、トランプ米大統領がテレビ画面に現れ、驚くべき発言を行った。
「英国を除く欧州在住者の米国入国を禁ずる」
何かの間違いだと思った。やり直しが効かない取材で、キャンセルなどできない。ロンドンから出発すれば何とかなるだろうか、と悪知恵を働かせてもみた。一旦、バルセロナのアパートに待機し、トランプ発言の撤回を期待していたが、その機会は一向に訪れなかった。
突然の都市封鎖
14日夜になると、今度はスペインのペドロ・サンチェス首相が緊急会見を開き「非常事態を宣言する。外出の禁止と国境の閉鎖を命じる」と発表した。翌朝、米渡航認証システム(ESTA)の一時停止メールが届いた。もう法的にも物理的にも無理だった。航空券とホテルをキャンセルすることにした。
スペインでは、国境と都市の封鎖に取りかかっていた。私は、国どころか、バルセロナからも、アパートからも出ることができなくなった。まさかの「ロックダウン生活」が始まったのだ。
非常事態宣言の翌朝から、町は静けさに包まれた。フランスに次ぐ世界第2位の観光大国だけあり、人影のない光景は不気味でしかなかった。バル、レストラン、商店、百貨店などが一斉に休業した。平日に飲食店が閉まるのは、前代未聞だと言える。営業を続けていたのは、スーパー、薬局、キオスク、たばこ屋、理美容院くらいだった。
突然の外出禁止令に人々は戸惑った。数日間、私の散歩癖は抜けず、スーパーの袋をカモフラージュで手にぶら下げ、街中を徘徊した。どうやら周りの歩行者も同じことを考えているようだった。買い出し以外、軽い運動も許されないとなると、自宅待機が息苦しく感じられた。
1日数十分でもいい。外の空気が吸いたかった。警察とすれ違わないよう、パックマンのように工夫して歩いた。まだ、コロナを甘く見ていた。感染しなければいい……。自分だけの問題だと捉えていたのだ。
欧州最大の人口密度といわれるランブラ通りや、人気観光名所のサグラダ・ファミリア(聖家族教会)からも人が消えていた。腹を空かせたハトやカモメは、ホームレスが食べ残したクッキーを突き合っていた。
人気の途絶えたランブラ通り
翌日、今度は短時間だけ、散歩に出かけることにした。そんな日に限って後ろから捕まってしまった。
「ここで何をしているの? どこから歩いてきたの? スーパーには1人で行ってください。違反すれば600ユーロ(約7万2000円)の罰金になりますよ」
斯くして医療崩壊は起きた
この日から、ほとんど外に出ることはなくなった。家に籠もり、読書、執筆、食事を繰り返し、体重はもちろん増えていった。この生活に体も慣れ始めると、今度はむしろ外出が億劫になっていくのだった。
暖かな日差しが差し込む、ある夕暮れ時、ABBAの『ギミー・ギミー・ギミー』がどこかのアパートから、大音量で流れてきた。私も嬉しくて咄嗟にベランダに出てみた。ストレスが溜まっているのか、屋上に集まる若者や、ベランダや窓から顔を出す住民が缶ビールやワイングラスを片手に踊り始めた。
曲が終わると「オートラ(アンコール)」の歓声が地区全体に木霊した。そして曲は、ビージーズの『ステイン・アライブ』にフェイドインした。辛いことは国民全員で吹っ飛ばす。「Carpe Diem」(今を生きろ)――スペイン人の魂だ。
サンチェス首相は「もっとひどい事態は、これからやってくる。心の準備をして欲しい」と、険しい表情で国民に訴えた。この頃、1日の感染者は5000人、死者は500人のペースで増えていた。「今を生きる」には、あまりにも残酷な毎日だった。
実は、3月5日時点では、日本のほうがスペインより感染者も死者も多かった。それが3月31日になると、両国の感染者の差が9万2464人、死者の差が8133人と桁違いの開きを示した。
なぜこのような事態に陥ってしまったのか。
日本の知人たちは、スペインの握手や頬キスの文化、日本の学校の手洗い水道の存在、箸を使う文化と手でパンを食べる文化の違いなど、生活習慣や衛生上の相違点について言及していた。これは大きな違いだが、他にも決定的な差がある。
例えば、土足のまま家で生活し、混み合うバルで立ったまま飲み食いする。週末はサッカー観戦を楽しみ、夜になると若者だけでなく高齢者もクラブで踊り合う。言語も考えられる。スペイン語は日本語と比べ、唾液が飛びやすい。発音上の「飛沫」も関係ありそうだ。
さらに、スペイン人のデモ活動は決定的な要因だと思える。労働組合の賃金引き上げ、カタルーニャ州の独立、タクシー運転手の配車サービス反対など、あらゆる分野で、この国のデモは欧州最大規模だ。コロナ禍にもかかわらず、「国際女性デー」の3月8日には、女性二十数万人が各都市のデモに参加した。
スペインでは、デモは常に巨大化し、政府を揺るがす。中でも、各都市で大々的に行われてきたのが医療従事者たちのデモだった。彼らは「医療費削減反対」を毎月、毎年のように訴え続けてきた。
深刻な看護師不足
あまり知られていないが、スペインは2008年から6年間、世界中のどの国よりも深刻な経済危機を経験した。失業率は一時期、27.2%に達し、25歳未満の若年層に限れば57.2%にまで上昇した。
銀行のATMスペースで寝泊りするホームレス、仕事をせず麻薬売買だけで暮らす若者、夫の会社が破綻し売春に走る妻、民泊ビジネスだけで日銭を稼ぐ人々などが急増した時代だった。私の友人の多くも同居生活を送っていた。衣服類をシェアする女性たちもいたほどだ。
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source : 文藝春秋 2020年6月号