予期せぬ出来事 ─私の闘癌記─

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作家で元東京都知事の石原慎太郎氏(87)が、“難治がん”のすい臓がんから奇跡の生還を果たしていた。そんな石原氏が、『文藝春秋』に闘病の様子などを綴った手記を寄せた。これは、地獄の底から予期せず這い上がった男の国への最後の建言である──
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石原氏

芥川賞で有名になった訳ではない

 振り返って見れば私の人生は予期せぬ出来事の連続だった。

 学生時代に復刊させたかつての『一橋文芸』の原稿がいざとなるとどうしても足りずにその穴埋めを頼まれて書いた小説が文學界の同人雑誌評で注目され、その号に発表されていた新規にもうけられた新人賞の規定を見て最初の候補作がいかにもつまらないのでこんなものならもう少しましなものが書けるだろうと思い、二日で書きあげた『太陽の季節』をぎっちょの悪筆なので三日かけて清書して投函したらそれが新人賞となり、さらに芥川賞ともなった。

 その後作品への毀誉褒貶がかしましく、まだ若造の私が突然衆目にさらされることになったが、自惚れて言う訳ではないが私は芥川賞をもらって有名になった訳でなく、芥川賞なるものは私のような小僧が毀誉褒貶の小説で賞をもらったことで世に有名になりおおせたのだ。これもまた芥川賞にとっても予期せぬことだったに違いない。

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受賞当時の石原氏

 そしてことの余韻として私にとって予期せぬ出来事があい次いで現れてきたものだった。まだ二十代の初めの頃文壇の行事で出会った桶谷繁雄さんの推輓で富士重工のスクーターのキャンペーンで中南米を走り回り、チリーのサンチャゴから南下し、パタゴニアを越えアルゼンチンに入り草の海のパンパスを北上し、さらにブラジルのサンパウロまで二千キロを越える大キャラバンの隊長の依頼が舞い込み二つ返事で引き受けた。

 あれはまさに天から降ってきたような話で母校の一橋大学の自動車部の学生を引き連れての長駆となったが私にしても選ばれた学生たちにしろ、行く先々で美女と美酒に恵まれたまさに青春を謳歌する夢のような旅だった。

人生における最初の挫折

 私の人生における最初の挫折はベトナム戦争の最中にある新聞の依頼でクリスマス休戦という、戦争の真っ最中での未曾有の行事の取材を頼まれ、好奇心にかられるまま危険極まる最前線での雨中の待ち伏せ作戦にまで参加し疲労困憊の揚げ句肝炎にかかり、帰国後半年の静養を強いられ、その間ベトナムでの体験に照らして祖国日本の現状に強い危機感を抱いて政治参加を決心してしまったものだった。

 あれは自業自得の選択だったが他人の戦争の取材に赴く前には予想もしなかった人生における選択だった。

 その結果私の文学は半永久政権に近い自民党への反感から狭量な日本の文壇の偏見やそねみもあって不当な扱いをうけたものだったが。

 その後二十五年の永年勤続の表彰を受けたのをきっかけにして引退したが、私の政治参加がもたらした最たる試練は苦労の末参議院から東京の選挙区を選んで衆議院に移って間もなく当時の共産党の美濃部知事に対抗しての出馬の要請があったが当然私は固辞したものだが、三木派の宇都宮徳馬氏が候補となったもののなんと選挙の告示の十日前に突然候補を辞退してしまい、美濃部の無競争での再選となりそうな状況に対抗して敗戦を覚悟の上で私が立候補することになっての試練だった。共産党への敵意と危機感に駆られての決心だったが、あれも行きがかりとはいえ予期せぬ出来事だった。

 その後訳のわからぬ青島知事が退任した後の都知事選の候補たちが余りに低劣な議論をしているのに呆れて衝動的に決心してしまいまたぞろ政治の世界に舞い戻ったのも半ばは予期せぬ出来事とも言えたろう。

 実はその前に思い出すにも空恐ろしい予期せぬ出来事に出会ったことがある。あれは私が生まれて初めて味わった恐怖の体験だった。ある時誰かが持ち込んだマリアナ諸島のマウグと言う奇怪な島の写真を見て衝動的にこの島でダイビングをしてみたいと思い立ち仲間を集めて船をしたてて出かけたものだがその船の速度が遅く五日がかりで、ようやくたどり着いたマウグの一つ前の火山島でともかくまず潜ろうと気がはやり本船からボートに飛び移る時足につけていたフィンがひっかかり仲間の膝の上に背中から落ちて肋骨を折ってしまった。夕食の後激痛が襲い身動きも出来ずにともかくもはるか南のサイパンの病院に行って手当てをと痛みを堪えさらに丸四日かかってたどりついたサイパンの病院で、もしも背骨を痛めているなら処置は出来ぬと言われ、さらにグアム島の海軍病院に回され痛みの中もしも脊髄をいためていたらこれは一生ものだと覚悟し恐る恐るにたどり着いたものだった。

 レントゲンで背中の傷を調べる間の緊張はまさに固唾を呑む思いだったが、マレイシア人の若造の医師は写真を眺めて「OKノーハーム」と言ったがベテランのレントゲン技師が注意して写真を指さしたらただ一ケ所小さなひびが見えた。固唾を飲む思いで痛みを堪えつづけた延べ一週間の背骨への懸念が解けてほっとしホテルに入り翌日の飛行機の予約をして一人で祝杯を上げたが、五日ぶりのまともな食事の後の祝杯は部屋にもどったらたちまちまた激痛をよみがえらせはしたが、それももうなんとか慣れたものだった。

 しかし日本に戻ってなお調べてみたら背中の肋骨はなんと三本も折れていたものだったが。

 痛みをこらえながらの粗末な船での長旅とサイパンで宣告された背中の怪我への息をつめる思いで過した恐怖への経験は思っても見なかった生まれて初めての体験だった。

膵臓の辺りに妙な影

 そして短命に終わった父と弟に比べての長寿の結果迎えた八十の齢を過ぎて間もなくある寒い日の夜散歩に出かけた折りに靴の紐が上手く結べなく揚げ句に散歩の道を迷ってようやく家にたどり着き、そんな自分の様子に気がつき主治医に質したら即入院と言うことで軽い脳梗塞とわかった。これまた今まで好き勝手に生きてきた私にとっては青天の霹靂に似た予期せぬ出来事だった。

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石原慎太郎氏(右)と弟・石原裕次郎氏(左)

 それもなんとかクリアして昨年八十七の誕生日を迎えたが私にとっての予期せぬ出来事はまたしても私の人生を彩ってくれた。

 それは今年の一月に夜間の頻尿に悩んで、長年前立腺の検査をしてもらっている東海大の松下医師に相談に赴いたら念のために腎臓との関わりを調べるためにエコーを撮りましょうと言うことで撮影をしてもらった。

 ところが出来上がった映像を眺めて松下医師が首を傾げ、「膵臓の辺りに妙な影があるけど気になりますなあ、この月末本院から膵臓の専門家が来るので一度よく調べたら」と、建言してくれたものだった。

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source : 文藝春秋 2020年7月号

genre : ライフ ヘルス