■夏生さえり(なつお・さえり)
ライター。出版社とWebメディアでの編集者勤務を経て、ライターとして独立。取材・エッセイ・脚本・書籍等、主に女性向けのコンテンツを多く手がける。CHOCOLATE Inc.のプランナーも勤めている。著書に『今日は、自分を甘やかす』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)『揺れる心の真ん中で』(幻冬舎)他。
Twitter:@N908Sa
note:saeri908
実家で飼っている犬は散歩が苦手で、家の前しか歩かなかった。わたしはすこし離れてしゃがみこみ、手を伸ばして誘いだす。「ほら、ここまでおいで。同じ場所ばかり見てないで、こっちまで歩いてごらん」。犬はすこし考えて、そこまでなら頑張るかという顔をして気乗りしない足取りでぽつぽつと歩いて近寄ってくる。あとすこし、あとすこし。いよいよ手が届こうかというところまで来ると、わたしは数歩後ずさりをする。「あとちょっとだよ」。犬は近づく。わたしは離れる。「あとちょっと、あとちょっと」。犬もバカではない。立ち止まってソッポを向いて鼻をフンと鳴らし、うんざりですと伝えてくる。今思えば、そこまでして外を歩かせなくてもよかった。当時のわたしにはもちろん悪意はなく、他の世界があることを知ってほしい一心であった。それで記憶の中のわたしは、また一歩後ずさりして犬に言う。「あとちょっと。そしたら家に帰ろうね」。犬は再び考え込んで、やがてわたしの言葉を信じて、歩き出す。
新型コロナウイルスの感染拡大により、世の中が変わり始めた3ヶ月前。はじめは「あとすこし頑張れば、もとの日常に戻れる」と信じて我慢をつづけていた。けれど「あと1週間が山です」「この1週間が大事です」とゴールは遠のくばかり。訝しがりながらも言われた通りにしていたが、やはり向かっていたゴール間際になると、自粛は延びる。頑張る。延びる。それを続けるうちにやがて緊急事態宣言がなされ、「あと1週間」を信じていたころから3ヶ月近く経ってしまった。もちろん誰も悪くない、そうわかっていてもやっぱりちょっとウンザリしてあの頃の犬と同じように鼻をフンと鳴らしたくなり、当時の自分の行いをちょっと申し訳なく思うようになった。
本当に未曾有の事態だった(し、今もその最中にいる)。世界中が混乱し、なにを信じればいいのかわからない状況の中でみんな溺れないように必死に乗り越えてきた。前向きな人もいれば悲観的な人もいた。わたしはというと、嘆いていても仕方がないからと、できるだけネガティブなことを言わないようにほとんど無意識に努めていたように思う。幸いにもわたしはインドアで単純な気質なので家に居続けるのはさほど辛くなかったし、早々とリモートワークに切り替えてくれた柔軟な会社のおかげでストレスは最小限となり、同じように家にいるようになった夫とげらげら笑いあう暮らしをした。なにが必要で、なにが不要であったかが明確になったこの期間で、わたしはより一層、家族と暮らしを守りたいと強い決心をして(しかもこの時期に子犬を迎えたことも、その気持ちに拍車をかけた)、「つらいけれど、大事なことが学べてよかった」などと自分の心との折り合いをつけたはずだった。なのに。
6月になって、わたしは泣いていた。
しかも、紫陽花の前で。
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source : 文藝春秋 2020年8月号