安倍首相の「言語能力」が国を壊した

この国の「危機管理」を問う2

柳田 邦男 ノンフィクション作家
ニュース 政治
安倍首相の言語感覚は、戦後の権力者の中で最悪のレベルにまで堕ちた。言葉は、人々が危機的な状況に置かれているときには、極めて重要だ。そんな人物がトップの座についているこの国の未来はどうなるのか。
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柳田氏

危機管理の大失敗

 新型コロナウイルスの感染者が、日本国内で増え始めるや、風邪のような症状で不安を感じた人たちが保健所などに電話で相談しても、その程度の症状なら自宅で安静にしていてくださいと言われて、PCR検査さえ受けさせてもらえない。政府専門家会議も「医療崩壊」を防がなければならないと、まるでそのことが最優先課題であるかのように訴え続けた。

 一体、国民の命を守るこの国の危機管理はどうなっているのか。様々な災害や事故の原因調査をしてきた私は、3月半ばにコロナ禍がいよいよ深刻になってきた時、混乱の原因を調べないではいられなくなった。東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故が発生した時、危機管理体制がまるで欠落していたため、避難する何万もの住民たちが大混乱に陥った時の情景が私の脳裏で二重写しになって甦ってきた。

 安倍晋三政権が頼りにすることになる専門家会議(座長・脇田隆字国立感染症研究所所長)が設置されたのは、2月14日。専門家会議は、厚生労働省健康局が用意した様々な現況データや感染症専門家の委員らが収集しているデータをもとに、実態の分析と対策のあり方について、随時意見交換を行い、2月24日に「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の具体化に向けた見解」をまとめた。政府への提言であると同時に、一般国民に理解と協力を求める内容のものだ。

 それによると、感染者の多くは無症状か軽症で回復するので、対策の目標を「感染拡大のスピード抑制」と「重症者の発生と死亡者数を減らすこと」に絞るという。具体的な要点は、▶PCR検査は設備や人員が限られているので、重症化のおそれのある人に集中させる▶PCR検査を全ての人にすることは、このウイルス対策として有効ではない(理由不明)▶不安な人々が医療機関に殺到すると、診療の対応がパンク(=「医療崩壊」)するばかりか、医療機関がクラスターの場になりかねないので、PCR検査対象者を絞る、というのだ。そして、一般国民に求める感染防止のための行動を記している。

 この方針で、PCR検査体制を増強するよりも、検査対象の範囲を狭く絞って乗り切ろうとする政府の取り組み方が決定づけられたと言ってよい。それが危機管理の大失敗を表面化する第一となったのだ。

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専門家会議による記者会見

PCR検査数の異常な少なさ

 厚労省はこれより先、2月17日に一般向けに「相談・受診の目安」を発表し、「風邪の症状や37.5度以上の発熱が4日以上続く方」「強いだるさや息苦しさがある方」などは、帰国者・接触者相談センターに相談してくださいと、いわば「条件」を打ち出していた。これは一般の人々が検査を受けるかどうかを判断する「目安」に過ぎないのだが、相談センターあるいは保健所の中には、人手不足などから、「目安」の症状になっていない人のPCR検査を受け付けず、“様子見”を求める「条件」として使うところが少なくなかった。

 しかも専門家会議が2月24日に発表した前記の「具体化に向けた見解」は、相談センターや保健所がPCR検査を抑制するために、「相談・受診の目安」を「条件」のように利用することを正当化する役割を果たすことになった。そのことが、「PCR検査を受けたくても受けられない」「これでは感染の全体像を把握できないではないか」という批判を引き起こしたばかりか、国際的にも日本はなぜPCR検査数を異常に少なく抑えているのかという疑問が投げかけられることになった。

(ちなみに、新型コロナウイルスの感染が世界に広がり始めてから4か月間に、各国でどれだけの人々の検査が行われたのか、人口10万人当たりの検査件数を、4月下旬までのデータで見ると、次のようになっている。

 イタリア 3159件
 ドイツ  3043件
 フランス 911件
 韓国   1198件
 日本   187件)

 この異常とも見える数字の背景には何があるのか、深掘りして分析しないと、この国に澱む真の問題は見えてこないと、私は思った。

 専門家会議の尾身茂副座長は、5月4日の記者会見で、全体的なPCR検査能力が上がらないことについての質問に対し、こう答えた(要旨)。

「日本では、サーズ(SARS)やマーズ(MERS)が世界的に流行した時、国内で感染が広がらなかったことから大量のウイルス検査を想定する声は生まれなかったし、実際に検査体制の拡充はなされなかった。新型コロナウイルス感染が国内で急増してからは、度々政府に拡充をすべきだと言ってきたのだが、思ったほどのスピードではそうならなかった。そういう現実の中で、社会的には優先順位というのを考えなければいけない」

 つまりは、日本ではPCR検査体制が不備だから、検査対象に優先順位をつけるのは、やむを得ないことだというのだ。この会見を聞いているうちに、私の脳裏に《え? それ変ではないか》という疑問が走った。それは、次のようなことだ。

新型インフルエンザの教訓、活かさず

 サーズやマーズの世界的な流行の時、日本では確かに感染は拡大せず、政治・行政においても医療界においても、パンデミック対策の議論はほとんど生まれなかったのは、その通りだ。だが、2009年の新型インフルエンザ流行の時は違っていた。

 この時は、新型インフルエンザ拡大に対し、行政と医療界の体制が不十分だったことから、時の民主党政権が専門家を招集して問題点を洗い出し、12年5月に新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)を成立させた。法律で「インフルエンザ等」と、あえて「等」を付したのは、従来より致死率の高い未知のウイルスの発生も想定対象にしておくべきだという考えによるものだ。

 その後自民党が政権を取り戻すと、13年6月安倍政権は特措法に基づく「行動計画」と「ガイドライン」を決めた。そこには、平常時からの医療体制の整備として、パンデミック下の特別隔離病床など必要な病床数の増強、医療者の防護服・医療用マスクの確保、PCR検査体制の拡充、一般国民が広くマスクを着用できるような供給体制、等々、今回逼迫して問題になったことが、ほぼすべて“政策課題”として掲げられていたのだ。

 それから7年、この“政策課題”に対し、安倍政権は何をしたのか。その答は、今回の大混乱が示している。

 ほぼ同じ7年間に、ドイツのメルケル政権はコッホ研究所の報告書に沿って、パンデミックに備える医療体制の構築に取り組んだ。カナダのブリティッシュコロンビア州では、もっと早くサーズ以前から州単位で対策に取り組んでいた。いずれも本誌先月号で報告した通りだ。

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初動の早かったメルケル独首相

空白の7年間

 国家の危機管理の成否を分ける「第1の原理」は、平常時において最悪の事態をリアルな形で想定し、その事態を乗り切る具体的な対策に全力をあげて取り組むべきであることを、ドイツとカナダの事例は教えてくれた。

 では、安倍政権は何に時間を費やしていたのか。精力を注いだのは、第1に、憲法学者らの90パーセント以上が違憲の疑いがあると表明した安全保障関連法(自衛隊の海外活動を拡大するのが主眼)の成立であり、第2、第3は、モリカケ疑惑や桜を見る会疑惑からの保身と政権防衛だった。何という空白の7年間。国民の命を守るのは政治の第1の責務だと繰り返し言明してきた安倍首相の言葉は何だったのか。

 ところで、専門家会議の中心になった尾身副座長は、7年前に安倍政権が「行動計画」を決めた当時、新型インフルエンザ等対策有識者会議の会長として、「行動計画」の内容をよく知っている人物だ。政府が「行動計画」に取り組んでいるのかどうかを注視し、警鐘を鳴らす責務があったはずだ。サーズやマーズの時に日本では「大量のウイルス検査を想定する声は生まれなかった」から、PCR検査体制の拡充がなされなかったなどという弁明をなぜするのか。

 また、新型コロナウイルス感染が拡大してからの検査体制の行き詰まりについて、「度々政府に拡充をすべきだと言ってきた」のであれば、いつ誰にどのような進言をし、それが実現されなかった理由は何なのか。それは、この国の政治の決断と行政のあり方にかかわる重要な問題のはずだ。その内実を明らかにしてほしい。

 そこで、パンデミック対策の不備の背景にある問題を、さらに深掘りしていくと、問題は単純ではないことがわかってきた。それは、官僚のゆがんだ賢さの投影であり、行政の「悪しき文化」とも言うべき問題だ。

医療体制拡充なしの“逃げ道”

 行政の代表的な「悪しき文化」には、2つある。

 一つは、災害や社会問題が生じた後、所管省庁は専門家などによる委員会を立ち上げるが、報告書がまとめられても担当の幹部官僚が異動してしまうと、政権のトップか担当大臣がよほどその課題に強い関心を持たない限り、官僚たちは課題を放置してしまうという悪弊だ。

 もう一つは、そういう委員会のまとめ役を担う官僚が、報告書に表向けの政策課題を掲げても、財源不足などからそれを実施できない場合の姑息な“逃げ道”を書き込んでおくという“ずる賢さ”だ。

「行動計画」と「ガイドライン」を注意深く読むと、PCR検査体制を拡大したり、特別病床を増強したりしないでやりくりする“逃げ道”がしっかりと設けられていることが見えてくる。それは、次のような記述だ(要点)。

・PCR検査等による診断は患者数が極めて少ない段階で実施するものであり、患者数が増加した段階では、PCR検査等の検査は重症者等に限定して行う。

・入院治療は重症患者を対象とし、それ以外の患者に対しては在宅での療養を要請する。

 今回まさにこの通りに実践されたやり方だ。このような対策は、行政や医療の立場からは、合理性のある線引きの仕方だろう。PCR検査でも特別病床でも、突然のパンデミックに対応できるだけのゆとりをもって増強するには、医療機関に助成金を出す財源が必要となる。未知の感染症の脅威に対して、大きな予算を組もうとしても、首相の政治判断がない限り、財務省は通してくれないだろう。しかも、医療行政においては、この30年来、医療費削減、病床数削減が“絶対的”な命題になっていた。その中で処方された“逃げ道”が、右記の対策だ。

 視点を変えて、感染した患者、特に重症に陥って死の恐怖に脅える患者の立場に立って考えてみる。あるいは逼迫した医療現場の医療者の身になって考えてみる。そうすると、パンデミックに備えた医療体制の抜本的な見直しと拡充が本気で取り組むべき政策課題であったことは、議論の余地もないほど明白だ。財源の問題について言うなら、安倍首相がアメリカから1機約100億円もするステルス戦闘機を将来的に計147機も買うという計画を打ち出すと、財務省はどこからかすぐにその財源を引っ張り出してくる。国民の命を守るという名目が、なぜもっと切迫性のある感染症対策で実践されないのか。

 安倍政権は、5月末になって、コロナ禍で資金繰りにあえぐ事業者への各種給付金を主要な内容とする総額31兆円余の第2次補正予算を組み、6月12日に国会で成立したが、その中には、自治体が感染症対策としての検査・医療体制の整備を進めるための交付金として、2兆2370億円も計上されている。安倍首相は、予算規模が過去最大であり、世界的にもコロナ対策費として最大規模だと、繰り返し誇らしげに語った。

 そもそも補正予算の中には、危機管理の失敗によって社会活動・経済活動に生じた打撃の後始末というべき部分がかなり含まれている。仮に医療分野について、検査・医療体制の整備のための予算の半分の1兆円だけでも、コロナ禍以前の7年間に投じていれば、感染拡大の規模も混乱もずっと小さく抑えられ、社会・経済への影響も小さくて済んだはずだ。失敗の後始末のための予算規模が巨大になったこと(即ち国民の将来の税負担が膨大になること)を、危機管理の最高責任者が誇らしげに演説するのをテレビで見て、私は愕然とした。

早期立ち上げの致命的失敗

 ここでドイツのコッホ研究所の報告書に明示された重要な一文を想起してほしい。

「(最近のウイルスの拡がり方では)世界規模の感染を引き起こすには、最初は極端に少ない事例でも事足りる」という指摘だ。初期のうちに危機管理対策を起動させるかどうかは、感染症拡大を小規模なものに抑え込めるかどうかの決定的な分かれ目になるという警鐘だ。発生事例が「極端に少ない」段階のうちに行動を起こせとは、まさに国家の危機管理の成否を分ける「第2の原理」だ。

 その原理に即して検証すると、日本において、新型コロナウイルスに対する本格的な危機管理体制を立ち上げるべきだったのは、1月半ばだったと言えよう。

 その根拠は、こうだ。中国の武漢で、12月下旬から異様な肺炎患者が続々と発生し(1月頭に44人とWHOに報告)、1月1日には武漢の市場が閉鎖された。1月7日には、中国疾病対策センターが異例のスピードで、病原体が強力な新型コロナウイルスであることを突き止めたと発表。1月11日、武漢で早くも死者が出る。1月15日、日本(神奈川県)で武漢から帰国した30代の男性が感染していると診断される。国内初の感染確認だ。中国では感染者が爆発的に増え始め、1月20日には、1500人を超えた。武漢の医療現場が大変な事態になっていることも報道されるようになった。

 この時点で、安倍首相も感染症の専門家も、
《これは大変な事態になる可能性がある》
と直感して危機管理の網を大きく広げようとしなかったのが、この国の混迷の始まりだった。

 なぜできなかったのか。国家の危機管理体制ができていなかったこと、政権トップの危機管理に対する感性が低く意識も稀薄だったこと、政権全体としてグローバル化時代に潜む新たなリスクについての認識が薄かったこと、トップの決断を促す危機管理のプロフェッショナルを側近に置いていなかったこと……等々だ。

最初の1人が示す拡散の危機

 では、仮に1月に危機管理体制を立ち上げたとしたら、まず何をすべきだったか。最初の感染者が突然、神奈川県で見つかったことが、ヒントを与えてくれる。

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source : 文藝春秋 2020年8月号

genre : ニュース 政治