拙著『岸惠子自伝』を上梓する時、タイトルが面映ゆかった。『岩波書店』と編集にたずさわった旧友が決めて下さったのだが……。
《岸惠子なんて麗々しく名乗ったって、誰が知るかよ!》と羞恥心を募らせた。けれど、好意的な書評を沢山頂いて、こんどは嬉しくなるという生来のおめでたさでアタマがごちゃごちゃと忙しくなった。そうしたある日、私は書斎を出て、両親が住んだ築90年近い古びた母屋の茶の間へ行きTVの前にだらしなく座った。点けた画面に現れたのは美空ひばりさん。私は『自伝』の中でも「美空ひばり讃歌」を謳ったファンの一人。
切なさが沁みる声にときおり誰も真似のできないぞッとするほどの凄みが宿る。
声の色合が一言を歌うのに百色ほどを渡り歩く。その稀有な声が、歌っていた。
《一本の鉛筆があれば……》
私の知らない歌だった。私は痺れるように聴き入った。
《一本の鉛筆があれば、
私はあなたへの愛を書く。
戦争はいやだと私は書く》
松山善三さんの詩は続く。
《一枚のザラ紙があれば、あなたをかえしてと私は書く。
一本の鉛筆があれば、
八月六日の朝と書く。
一本の鉛筆があれば、
人間のいのちと私は書く》
8月6日。広島のいのちを殺した原子爆弾。それを作ったオッペンハイマー。それを使ったトルーマン米大統領!! 1本の鉛筆と1枚のザラ紙。それは、私の青春だった。
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source : 文藝春秋 2021年10月号