優れた小説は複数の読み方ができる。本書には実に多くのテーマが盛り込まれている。具体的には、近親相姦、障害者問題、性的倒錯(特にマゾヒズム)、摂食障害(過食)、夫婦間における相互理解の難しさ、不倫、兄弟の葛藤、日本人の霊性、在日朝鮮人問題、黒人問題、恥の文化などだ。これらのテーマを1つの小説に組み込んでも構成に破綻を来していない。大江健三郎氏の天賦の才がなければこのような作品はできない。評者はこの小説を1960年安保闘争の総括として読んだ。そこでは、政治と人間という古くて新しいテーマが扱われている。
万延元年の一揆と安保闘争
根所蜜三郎(27歳)が、この物語の語り部の役を果たす。妻・菜採子との間に重い知的障害を抱える子どもが生まれたので、その子どもを施設に預ける。蜜三郎は無気力になり大学講師の職を放り出し、菜採子はアルコール依存症になる。
蜜三郎には、鷹四という弟がいる。鷹四は安保闘争に加わるがそこで奇妙な行動をとった。鷹四の崇拝者である星男がその事情についてこう述べる。
〈「六月のデモのとき、鷹は、ひとりだけ、他の連中とすっかりちがうことをやったよ。それを、あんたは知らないからね」/新しい論理をひっさげて僕に挑みかかるべく、若者が僕を正面から見すえる位置に躰をのりだしてきたために、いまは暗いふたつの弾痕のようにしか見えない若者の眼を、僕は隠微な疑惑の念と共に見かえした。/「鷹はある日、暴力団に参加して、昨日までの、また明日からの、自分の味方を、さんざん殴ったり蹴ったりしたよ!」〉
人間は内面に常に両義性を抱えている。政治は、味方と敵を峻別し、敵を殲滅する運動であるので、人間の両義性を包み込むことができない。それだから、内面に忠実である人間は、極端から極端へと政治的立場を変化させる。蜜三郎と鷹四の曾祖父の弟が、安保闘争のちょうど100年前の万延元(1860)年に大窪村で一揆を起こしたことがある。これについてはさまざまな伝承がある。鷹四が〈曾祖父さんは、弟を殺して村の大騒動をおさめたんだ。そして、弟の腿の肉を一片、喰ったよ。それは、弟の起した大騒動に自分が関係していないことを藩の役人に証明するためだったんだよ〉と説明するのに対して、蜜三郎は〈いや曾祖父さんは、騒動のあとで弟が森をぬけて高知へ逃げるのを援助してやったんだ。弟は海をわたって東京に行き名前をかえて偉い人になったんだぜ。明治維新前後、手紙を何通か曾祖父さんにおくってきたよ。曾祖父さんは、そのことをずっと黙っていたから、みんながおまえの聞いたような嘘をつくりあげたんだ。なぜ曾祖父さんが黙っていたかといえば、弟のせいで村の人間が沢山殺されたから、その家族が怨みに思って怒るのをふせごうとしたんだよ〉との見方を示す。真相は作品の結末で明らかにされる。
安保闘争終焉後、鷹四は、米国に渡り、安保闘争に参加した罪を懺悔するという演劇を行う。帰国後、故郷の愛媛県の谷間・大窪村にある倉屋敷を売却することを蜜三郎に持ちかける。買い手は、村の経済を牛耳るスーパーマーケットの天皇と呼ばれる在日朝鮮人ペク(白)・スン・ギであるが、鷹四はこの情報を当初、蜜三郎に伝えない。そこで鷹四、蜜三郎夫妻、星男と鷹四の信奉者である桃子がしばらく大窪村に住むことになる。鷹四は村の青年を集めてフットボール・チームを作る。しかし、それは偽装で、狙いは一揆を起こすことだ。民衆のスーパーマーケットに経済を牛耳られていることに対する反発と朝鮮人に対する民族的偏見を刺激して鷹四は一揆を起こすことに成功する。しかし、鷹四は客観的に見れば事故であることが明白であるにもかかわらず、強姦殺人事件を起こしたと主張し、自殺してしまう。一揆は自然消滅する。
倉屋敷を移動するために解体が始まったとき、その床下の隠し部屋が発見される。
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