筆者は複数の大学で講義をしている関係もあり、学生と接触することが多い。この若者たちと話していて、現代社会の病理を感じることがある。将来は起業して、大金持ちになるという野望だけは大きいが、勉強しない。そのくせ、「大学で知識に偏った勉強だけしていても、社会に出てから役に立たない」などとうそぶく。「国際的に活躍したいならば、英語はきちんとマスターしておいた方がいいよ。まず、英検準1級を取って、それからTOEFL iBTならば100、IELTSならば7.0くらいのスコアを取るようにしたらいい」と助言しても「僕は英語は十分に話せます。資格なんか必要ない」と答える。
これとは別に、地道に勉強しようとはせず、35万円を払って自己啓発セミナーに参加し、自分を変えようとする学生もいる。セミナー代は消費者金融から借りて、数百万円の借金を抱えてしまったので、利子の支払いに追われている。元本返済の目処は立たない。
社会人でも問題を抱えている人が少なからずいる。講演会や勉強会の後、「相談に乗って欲しい」と呼び止められることがよくある。その相談の内容は、「現在の自分は、いわば仮の姿で、この環境では実力を十分に出せない」とか「自分の能力が真に発揮できる場所に転職したい」というようなものが多い。
「今の自分は仮の自分」
学生であれ、社会人であれ、筆者はできるだけ誠実に応対しているつもりだ。「自己意識だけが高くても客観的な実力が伴っていないと、滑稽なだけだよ。決して成功することはないよ」「人生に仮の姿なんて存在しないよ。今のあなたの姿を現実として受け止めることが必要だ。逃げても問題は解決しない。次の場所での自分も仮の姿に見えるだけだと思う」と言うのであるが、それを聞いて納得する人もいるが、少数で、大多数の人は下を向いてしまう。
稀にだが、「あんたなんか起業家として成功したことがないだろう。勉強ができなくても成功した人はたくさんいる」などと激昂する学生もいる。「自己愛が極端に肥大しているが、自分に自信がない人は、さまざまなトラブルを引き起こす」と指摘しようかと思うが、そうすると火に油を注ぐことになるので、「そうだね、柚木麻子さんの小説『伊藤くんA to E』を読むと参考になると思うよ」と答えることにしている。
伊藤誠二郎(27歳)は、有名大学を卒業した後、予備校の非常勤講師をつとめている。実家が千葉の大地主なので、経済的な不安はまったくない。売れっ子脚本家になることを夢見て、一昔前、テレビドラマの脚本で爆発的に売れたが、現在は忘れられかけている矢崎莉桜(E)の仕事場兼自宅で行われる勉強会に参加している。伊藤と、莉桜を含む5人のおりなす壊れた人間関係が見事に描かれている。女性側からの独白という形態で、Aから見た伊藤、Bから見た伊藤という形で物語を展開することによって、伊藤誠二郎という男の異常性が際立つ構成になっている。さらに言えば、伊藤と同種の異常さを5人の女性も部分的に共有している。類は友を呼ぶのだ。
伊藤からストーカーされるB(野瀬修子)は、伊藤と同じ予備校で事務のアルバイトをしているが、今の自分は仮の姿で、学芸員になることを夢見ている。しかし、本気で職探しはしていない。伊藤の求愛を修子は拒絶した。陰険な伊藤は策略をめぐらし、修子は予備校をクビになる。アパートに数日、引きこもった後、修子は、自分を変えようと決意し、カルチャースクールを訪れる。そこで伊藤に遭遇する。
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source : 文藝春秋 2018年09月号